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マタイの福音書の恵み ⑲
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復讐に関するイエスの解釈 ⑥ |
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オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
所有に関する三つの態度 人は、一般的に所有について三つの態度を持ちますが、それを良きサマリヤ人のたとえから見ることができます。 一つめのタイプは、「あなたのものは私のもの」と考える人で、エリコの道端にいた強盗です。人のものは全部自分のものであり、必要なら人を殺し、何のためらいもなく人のものを奪い取ります。人のものを大切にせず、自分のもののように扱う人がこのタイプです。 二つめのタイプは、「私のものは全部私のもの」と考える人です。これは強盗に襲われた人の前をそのまま通り過ぎた祭司やレビ人です。隣人はたいして大切ではなく、大切なのは自分だけです。このような人は、損も搾取もしません。ただ自分に熱中し、自分のものだけが最高の価値があり、意味あるものと考えます。だれがどうなろうと関係なく、自分だけが損をしなければよいと考えます。 三つめのタイプは、「私のものは全部あなたのもの」と考える人です。これは、良きサマリヤ人のことです。彼は、強盗にあった人の知り合いでもなく、助ける義務もありませんでした。それなのに、困難の中にある人を見て、ためらうことなく自分の時間とお金を出して、心を尽くして助けました。彼は、商売のためにそこを通ったのですが、彼がお金を稼ぐ目的は人を助けるためだったと言えます。このような人は、所有について「私の財産は、必要のある人のために用いられるべきものだ」と考えます。 一つめのタイプは、この世のすべての人や物は自分のためにあると考え、たとえば夫は私のために存在すると思う妻、妻は私のために存在すると思う夫です。二つめのタイプは、自分は自分のために存在すると考える人で、自分がいい暮らしができるのは自分が賢いために得た特権なのだと考える人です。しかし、三つめのタイプは、自分は人のために存在すると考え、「私が結婚したのは、あなたに仕えるためです」と考えて生きる人のことです。 以上のことから、まことのクリスチャンとしての生き方を明確に悟ることができます。つまり、これまで積み重ねてきた知識、富、名誉、健康、影響力などはすべて隣人に仕えるために神が与えてくださったものなのです。こうした概念を持つ人は、助けを求める人に惜しみなく助けを与えることができます。
求める者と借りようとする者 「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」(マタ 5:42)から、二つのかたちで人は近づいて来ることが、わかります。 一つめは、前半の「求める者には与え」という部分です。ここでの求める者とは、貧しい人、しいたげられた人、力なく病にある人で、人の助けが必要な人です。イエスは、このような人々が助けを求めてきたときは「与えなさい」と言われました。私たちのすべての所有物は、一時的に私たちが保管しているに過ぎません。ですから、人が求めるときには与えなければなりません。ここで、もう一つ考えるべきことがあります。みことばは、知らない人、関係のない人にまでも、キリストの恵みと祝福を分け与えるように言っています。 二つめは、42節後半の「借りようとする者は断らないようにしなさい」という部分です。これは単に貧しいから要求するのではなく、積極的にお金を借りようとする人がいる場合です。イエスは、このような場合にも断らないで貸してあげなさいと言われます。これは、何の分別もなく無条件に貸しなさいという意味ではありません。お金を貸す場合は、相手に与える影響を考慮しなくてはなりません。つまり、私たちが善を施すとき、相手がそれによってさらに悪くなるならば、かえってしないほうがましなのです。 たとえば、詐欺師にお金を貸してはなりません。なぜなら、詐欺師はそのお金で、さらに大きな詐欺をするからです。また、麻薬中毒者やアルコール中毒者にお金を与えることも妥当ではありません。与えることが、相手を堕落に落とし入れることならば、それはより大きな罪となってしまいます。このみことばのまことの意味は、多くのものを持っているのに、隣りで貧しい人が泣いているなら、それは正しいことではないという意味なのです。 人を助ける際に、考えるべきことがあります。一つめに、自分の身の程を過ぎてはならないということです。だれかにお金を借り、それをまた人に貸すのは、身の程を過ぎたことです。自分の暮らし向きや力の範囲内で最善を尽くしてください。二つめに、「あなたを助けてあげる」という心や高ぶりでしてはいけません。高慢な態度で助けるのは、かえって人を怒らせ、反発を引き起こす原因となります。 すべてのものは神のものです。自分の持ち物は必要な隣人と分かち合うべきだとへりくだり、愛とあわれみをもって分かち合ってください。このことに関する最も理想的な姿を、初代教会に見ることができます。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使 2:44~47)。
「私」が死ねば、すべてが可能になる これまで、四つの場合を通して、憎しみに愛で報い、復讐しない例を見てきました。しかし、問題は、私たち自身がこれを実践できるかということです。この問題の核心は、自分にあります。つまり「私」が生きていれば、すべてのことは不可能なのです。しかし、「私」が死ねば、すべてが可能になります。ですから、マタイの福音書16章24節で、イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われました。世のすべてに対して「私」が死ねば、神のすべての富に対して「私」が生きるのです。 きょう、皆さん自身を十字架につけることができますか。「私」が生きている限り、このみことばは私たちには不可能なことです。しかし、きょうイエス・キリストがされたように自分を十字架につけたいと望み、「私は死んだ」と告白することができるならば、これはたやすくなります。パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ 2:20)と言いました。 クリスチャンのだれもが、このように祈ることができるように願います。「主よ、御前で私のすべてが十字架につけられますように。あなたの御心のままに、残りの生涯を生きることができますように。」 イエスは、自分自身に死なれたために、十字架につけられて死ぬことができ、生涯を神の御心のままに生きることができました。私たち自身を十字架につける祝福された一日となりますように願います。
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