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マタイの福音書の恵み ⑱
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復讐に関するイエスの解釈 ⑤ |
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オンヌリ教会 前主任牧師 ● 故 ハ・ヨンジョ
これまで、イエスは、私たちが出会い得る三つの例をあげて、復讐しないことを教えてくださいました。今月と来月は、四つめの項目について考えていきます。前回までは権利に関する問題でしたが、次は所有に関する問題について考えてみましょう。 「求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」(マタ 5:42)。 このみことばは、人に何かを求められた場合、さらには人が一方的に何かを借りようとする場合、どうすべきかというクリスチャンの態度について語られたものです。これは、非常に困惑させられるみことばです。ただでさえ借りようとする人が多いのに、それをみな聞き入れるには経済的な余裕がなく、聞き入れないのもみことばに逆らうようで良心が痛むからです。しかし、このみことばを深く黙想すると、驚くべき祝福の秘密を見出すことができます。
所有の奴隷になった人々 多くの人々は、権利と同じように、所有においても奴隷になっています。何かを所有することが幸せであり、望むものを得られれば、幸せになると思い込んでいます。何をどれだけ所有しているかによって、その人が判断されるとも考えています。このように、人はとどまることを知らない所有欲に囚われ、間違った幻想の中でだまされて生きているのです。これは虹や蜃気楼を追いかけるようなものです。 とはいえ、この世は、お金がなくては余裕のある生活ができず、お金があればゆとりを持つことができるのが現実です。ですから、人々は、より多くの収入を得て、大きな家に住み、高い地位を得ることで人生の意味と生きがいを見出そうとします。「相対的貧困」ということばがあるように、明らかに貧乏なわけではないのに、ほかの人と比べると貧しいと感じ、不幸な生き方をする人々がいます。聖書は、誤った所有欲について警告しています。 「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません」(ヤコ 4:13~14)。 このみことばは、とどまることを知らない所有欲の熱病に侵された現代人への神からのメッセージです。聖書は、果てしない所有欲の虚像について警告していますが、多くの人々はその幻想を捨てられずにいます。 「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」(Ⅰテモ 6:7~10)。 所有欲は堕落した人間の本性 では、所有欲の本質は何でしょうか。それは、堕落した人間の本性です。人間の本性は、与えるよりも与えられることを好み、手放すよりも持ち続けることを好みます。戦争と暴力、殺人と戦いは、所有欲の争いであり、所有欲の戦いです。所有欲の幻想は、果てしないものです。お金はお金を求め、権力は権力を求め、快楽は快楽を求めます。所有欲をなくす秘訣は、放棄することです。しかし、所有欲の奴隷となった人間には、放棄ということばさえありません。なぜなら、すべてを自分のものにしなければならないからです。 厳密な意味で、人間には「所有」というものがありません。人間が持っているものは一つもなく、すべては一時的に借用しているものに過ぎません。聖書によれば、人の寿命は70年、健やかであっても80年です。私たちのいのちは、しばし主人である神にお借りしたものであり、預けられたものです。私たちの頭脳や才能、財産や子どもさえも私たちのものではありません。一定の時間が過ぎれば、主人に返さなければなりません。ですから、まことのクリスチャンには所有の生き方はなく、預けられた者としての生き方があるだけです。この考えは、借家暮らしの人にはよくわかるでしょう。しかし、人々はこの地で自分の王国を広げようとし、永遠に生きるかのような思い違いをしているのです。イエスは、次のように言われました。 「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタ 6:31~33)。 衣食住があるのなら、たとえ借家暮らしでも、それは神が与えられたものであり、祝福なのです。「求める者に与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」というみことばは、こうした文脈において黙想すれば、深い理解を得ることができます。
人間に所有はない 次に、42節のみことばに隠された意味について考えてみましょう。 一つめは、前述のとおり、人間に所有はないということです。すべてのものは神から来たものです。「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(ロマ 11:36)。 子どもは自分のものではないと早くから神にゆだねる夫婦は、賢い夫婦です。しかし、どれだけ多くの親が、子どもを自分の所有物だと勘違いし、英才教育に夢中になり、誤った育て方をし、幻想の中で暮らし、後になって子どもから裏切られて深く傷ついていることでしょう。子どもが最初に覚えるのは「Yes」ではなく、「No」であると言われています。これは、まるで「私はあなたのものじゃない。私は私」と警告しているようです。子どもが結婚しても自分のものだと思い込み、干渉し続けた果てに傷つく親もいます。 富も私たちのものではありません。富に依存すれば、ある日突然、火事になったり、破産したり、権力が崩れ去れると、一瞬のうちに悲惨な人生へと転落することでしょう。健康も学問も私たちのものではないことを、今一度覚えておきましょう。
所有は分け与えるべきもの 二つめに、所有は分け与えるべきものであるということです。人は、自分に必要なものを求めたり借りようとします。要求が受け入れられなければ、デモを起こし、暴力によって強奪することもあります。このような状況の中で、クリスチャンはどうするべきでしょうか。イエスは、私たちに「あなたのものは何一つない。だから、あなたが食べるもの、着るもの、寝るもののほかに持っているものは、あなたのためではなく、隣人に分け与えるためにある」という基本になるみことばを語られました。そして、「求める者に与え、借りようとする者は断らないようにしなさい」というみことばで応答してくださいました。
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