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マタイの福音書の恵み ⑰
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復讐に関するイエスの解釈 ④ |
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オンヌリ教会 主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
復讐は、罪人である人間の本能の代表的なものです。私たちは、害を加えられると、復讐したいという思いに駆られるものです。また、復讐とともに、自分の特権と権利を主張するものです。イエスは復讐に対して、「悪い者に手向かうな」と言われました。そして、現実的に直面し得る四つの状況を例に挙げて、教えてくださいました。一つめは、右の頬を打たれたら左の頬も向けなさいというみことばです。これは侮辱されても、さらに左の頬を向けることができるくらいの愛と赦しを与えなさいという意味です。二つめは、「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい」(マタ 5:40)です。すべてのクリスチャンには持つべき権利がありますが、決してその権利に執着してはなりません。クリスチャンは、法的な権利を主張してまで自分の利益を追求するのではなく、むしろほかの人の権利を尊重し、積極的に助ける人であるということです。イエス・キリストも、ご自分の権利を放棄されただけでなく、受けるべき栄光をひとつとして受けられませんでした。力があってもそれを用いられず、権利を主張できたのに、主張されませんでした。かえって損をし、迫害を受け、権利を捨て、それどころか積極的に人々を赦し、愛し、和解者となってくださったのです。 では、三つめの場合を考えていきましょう。「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい」(マタ 5:41)。 これは、法の濫用によって労働を強いることで、人間の自由や人権を剥奪する場合です。特に、この法を濫用したのは権力者で、それによって人々を苦しめました。歴史的に見ると、ローマの被占領国で実際にあったことです。権力者たちは、ある場所からほかの場所へ物を運んだり、郵便物を配達するとき、人を選び出して強制的に一ミリオン運ばせました。必要なものはすべて勝手に使いました。 このような例は、聖書にも見られます。イエスが十字架を負えなくなったとき、ローマ兵が近くにいたクレネ人シモンを無理やり選び出して十字架を負わせたのは、この法によるものでした。「この荷を背負って、次の駅まで一ミリオン行け」と言えば、それが被占領国では法になりました。こんな命令をされたら、どんなに悔しくてやり切れないことでしょうか。決して、喜んで笑ってできることではありません。しかし、そのような場合にも、イエスは「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい」と言われたのです。これがイエスの精神であり、キリスト教の本質です。 では、正義のない政府の下にいるクリスチャン、共産主義が統治する国のクリスチャンたちはどう生きるべきでしょうか。強制労働をするほかない状況に置かれている彼らにも、イエスは抗議しろとは言われません。政府が私たちに不当なことを要求し、命令するときにも、従わなければならないと言われます。このような解釈に、多くの人々が憤慨して異議を唱えますが、聖書ははっきりと、だれかがあなたに一ミリオン行かせるなら、喜んでその人と二ミリオン行きなさいと語っています。また、とんでもない命令を下す雇用者や上司にも従いなさいと言っています。 「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」(Ⅰペテ 2:18~19)。 私は、このみことばを読んで深く黙想し、これはまことですと心の底から告白しました。なぜなら、あれほど冷酷残忍なローマ帝国が、AD 313年にキリスト教国家となったではありませんか。これは、じつに驚くべきことです。一時、悪が勝利したかのように見えましたが、クリスチャンが二ミリオンを喜んで行ったために、それを覆したのです。ついにローマは、クリスチャンによって歴史に影をひそめてしまいました。これが、イエスの勝利です。クリスチャンはどんなに不利な立場にいても、最後には勝つ人々です。だめなように見えても、うまくいく人々なのです。 このようなみことばに、今日の韓国キリスト教を照らしてみると、現実の対処において二つの失敗をしたことがわかります。一つめは、一部のキリスト教勢力が信仰的な支えなしに政府に無条件に追従したこと、二つめは、政府に暴力で対抗して復讐したことです。どちらも、キリスト教のまことの態度ではありません。たとえ不条理に思えても、法と秩序を守り、不義を行わず、また妥協することなく、秩序に則って神の正義を最後まで実現していく態度が私たちには必要です。イエスが語られたみことばのまことの意味は、重要なことは外側の変化ではなく内側の変化であり、暴力ではなく祈りと愛をもって耐え忍んで十字架を負い、究極的な勝利を収めることを意味しているのです。どのような状況にも、私たちは愛の方法によって改革していかなければなりません。 また、このみことばは、私たちが会社でどのような態度で働くべきかについても適用することができます。給料をもらうから働くという人、職責上仕方なく従うという人は、不幸な人です。皆さんのいる会社は神が与えてくださった仕事場であり、仕えるべき場所であると考えて、忠誠を尽くしましょう。給料の分だけ働くというのは、クリスチャンの精神ではありません。クリスチャンは、給料のためではなく、神から与えられた人生の目的のために、忠誠をもって最善を尽くす人です。たとえ、無礼で不条理な要求をされても、助けようという心をもって仕事をしてください。 この原理は、家庭でも同じです。夫が5回頼んだら、妻は10回従いましょう。妻が5回要求したら、夫は10回答えましょう。このように行うならば、世が知らない隠れた力と従順の力が現れるのを見ることができるでしょう。 結論は、次のように出すことができます。一つめ、クリスチャンは、どんなに計画的で致命的な侮辱でも、それに対して怒ったり復讐してはなりません。二つめ、クリスチャンは、御名を汚すことになるような、どのような法的な権利や主張も申し立ててはなりません。三つめ、クリスチャンは、どのような場合でも他人を助け、従い、忠誠を尽くさなければなりません。 このように生きられたのが、イエス・キリストです。今日、イエスに従う私たちは、このような心と姿勢を持つべきではないでしょうか。 私たちは、このように祈りましょう。「父なる神様!『下着を求められたら上着まで与えなさい。一ミリオン行けと言われたらニミリオン行きなさい』と言われたイエスの御声を私たちが聞き、従うことができるように助けてください。」 政府には従い、会社ではあれこれ要求をするよりも喜びに満たされて働いてください。また、このみことばの御業が、皆さんの家庭でもなされるようにお祈りいたします。
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