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ディアスポラ日本人
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主のなさることは本当にすばらしい |
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福音交友会派遣SIMタンザニア宣教師 ● 清水担&いずみ
日本人としての現地での証しと経験 かつてドイツやイギリスの植民地だったためか、タンザニアの人々は西欧から来ている人々と一線を引いている印象がある。どことなく、上目遣いをして、取り入ろうという態度を見せているかと思えば、「いつかは出し抜いてやろう」という内心が見え隠れする。しかし、日本人には、いくぶん対等の立場をいるように感じる。日本とタンザニアは、歴史的にマイナスの関係はなく、かえって経済的に援助をしてきた(日本はタンザニアには最大の援助国)こともあるだろう。先方としては言い難いであろう「手厳しい忠告」をも受けることがあり、つらいが感謝している。 地元の文化に適応するように心がけるのは、宣教師には不可欠。しかし、それに反発してなかなか馴染まず、自国のスタイルをくずさない宣教師もおられる。タンザニアの文化は、日本のそれと共通するところもあり、これは私たちにはアドバンテージである。たとえば、目上の人をうやまい、敬語を使う。ござを敷いて地べたに座る。ご飯(米)を食べる。誇りと恥の文化。個人主義ではなく、全体主義。家族だけでなく、親類関係も大切にしている、などなど。 もちろん、日本と異なる事柄も多く、実際に困惑することもある。特に、時間の感覚がずいぶんと違う。目の前の仕事を時間内に済ませることよりも、友だちや家族と電話することが優先される。朝のティータイム、昼食、午後の休憩時間は役所は機能しない。1時間でできる書類は1日がかり、1日の仕事に1週間かかり、1週間のものは1ヶ月、そして、「1ヶ月ぐらいでできる」という車の通関の手続きに1年かかった。忍耐が鍛えられる。 地元で使われるスワヒリ語も、日本語を話す者にはとても親しみやすい。まず発音がよく似ていて、ほぼ100%、何を言っているか聞き取ることができる。文法も日本語のそれと通じるものがあり、英語で学ぶより、理解しやすいことがある。結果、ことばが通じるので人々はさらに心を開いてくれるのかもしれない。 私たちの住む町リンディはタンザニアの田舎で、私たちのほかに日本人はJICAの隊員が入れ替わりで来られたり、私たちの子どもを教えてくださったりする短期宣教師のほかは、旅行者が立ち寄ってくださるだけである。JICAの方とは2年間の滞在の間、自然と近しくなる。最初は、聖書やキリスト教には全く興味を示さない。しかし、アフリカの地で孤独を感じながら人生を考えていく中、少しずつ主に心を開かれていく。信仰を持つようになる方はまだない。が、それぞれにとって教会の敷居は確実に低くなっている。日本に帰った後、いつか教会に行ってキリストにある信仰を持って欲しいと願う。
神様のビジョンと夢 アフリカ北部はムスリム(イスラム教徒)、南部はクリスチャンが多い。タンザニアは、クリスチャンとムスリムが半分ずつぐらい住んでいるが、地域によって偏りがある。内陸にはクリスチャンが多く、海岸地域にはムスリムが多い。古くからアラビア諸国との交易が盛んで、早くからイスラム教が伝わったことと奴隷貿易の商品とならないためにムスリムに改宗したという事情がある。私たちはタンザニア南部、海岸にあるリンディというムスリム95%の町でイエス様を伝えている。 特に、マコンデ彫刻として知られるマコンデの人々、海で漁をするマラバの人々にみことばを届け、主が救いに導いてくださるように祈っている。
具体的な働きは多岐にわたる。 イエス様の生涯を描いた映画を村々で上映し、人々と一緒にスワヒリ語で聖書を読む。子どもたちのための集まりをし、彼らがムスリムとしての教育を受ける前に聖書のみことばを聞くことができるように願っている。 神様のあわれみの中、福音に応答し、イエス様を信じる方々が起こされていることも感謝である。教会が始められ、そこから宣教が続けられている。信じた方々が経済的に自立できるように助けることも働きの一部だ。 地元の方々が聖書をいつでも手にすることできるように本屋を開いた。すでにある諸教会間の交わりも促し、主にあって一つとなってムスリムの方々に宣教できるように励ます。神学校や中学・高校で聖書を教えたりもする。必要がたくさんあり、しかし、人手が足りないのが現状だ。
働きを始めるまでの道 私(担)はクリスチャンホームに生まれた。両親は大阪にある高石聖書教会で牧会の働きをしている。幼いころからキリストを信じて歩んできた。高校3年生のある日、世界宣教祈祷会に出席をし、神様からのチャレンジを受けた。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」(マタ 24:14)。「世界には宗教、言語、地理的理由で福音をまだ聞いたことのない方々がいる!」「だれかが行って、キリストの福音を伝えなければならない!」と語られていた。自分は、イエス様を信じて救われて感謝だけれども、それだけ終わりではない。このイエス様による救いを知らない方々の所へ行って証ししたい。大いに心が振るわされ、「神様!私の人生、神様のご用のためにお用いください!」とお祈りした。その時に、自分はどこに遣わされるだろうか。「アフリカなのかなあ。」その時、アフリカについてはまだ何も知らなかった。 高校卒業後、アフリカについて学べる大学を受験することにした。「そこは難しいから、ほかのにしたら」と言われる中、主が道を開いてくださった。合格発表を見に行って、自分の番号を見つけた際、わが目を疑い、隣に立っていた人に確認してもらったぐらいだ。帰りのバスの中で、喜び以上に恐れを感じたのを今も覚えている。「これは神様が開かれたのだ。ずっと神様を信じて歩んできたけれども、確かに神様はおられ、こんな私の人生を導いてくださるのだ。私はこの道を歩んで行くのだ。」 妻いずみは宣教師だった両親のもとでインドネシアに育ち、大学ではインドネシア語を専攻した。異文化伝道をする両親の苦しみと主からの励ましと恵みを目の当たりにし、やがて宣教師として主に仕えたいと祈るようになっていた。大学に入り、KGKでのみことばの学びを通して、「どうしてもインドネシアに」という思いは主からのものではなく、自分のプライドによると示され、サウルのもとへ遣わされたアナニヤのように「主が導かれるところならば、どこにでも行きます」と主にゆだねる決心をした。 私(担)と親しく話をするようになったのは、その頃である。主の導きを感謝している。妻の歩みをつぶさに見ると、主は「すべてのことを働かせて益としてくださるお方」(ロマ 8:28)であることを実感する。自由に話せるインドネシア語を傍らに置いて、慣れ親しんだ気候や文化を離れ、行きたくないと思っていたアフリカでスワヒリ語を一から学ぶ。「主が導かれたのだから、主が助けてください!」叫びにも似た祈りを、主は聞いてくださった。マラリヤなどの風土病で倒れる家族を看病しながらのスワヒリ語を学び、不思議なように単語が頭に入っていく。時には新しく学ぶ単語のはずなのに、すでにインドネシア語として知っている単語に出くわす。アラビア語やポルトガル語からの借用語がインドネシア語とスワヒリ語に多数あるのだ。リンディに初めて降り立った妻は「懐かしさ」を覚える。インドネシアの風景に似ていた。タンザニアに指を当て地球儀を回すとインド洋を越えてはじめに到達するのはインドネシアである。肌の色に違いはあれど、人々の人当たりのよい雰囲気が似ていた。主のなさることは本当にすばらしい。 日本の教会とのつながり、分かち合いたいこと 私たちは福音交友会から派遣され、日本の諸教会によって支えられ、宣教団体SIMを通して働いている。ニュースレターを通して働きの様子を知り、祈ってくださることは、私たちの原動力である。前線で戦う主の兵士たちを誠実な祈りとサポートをもって送り出し、支えていてくださる主にある兄姉に心から感謝している。ともに主に仕えて、主のために戦っていることを覚える。 今回、東日本で起こった大地震・津波・原発事故を受けて、タンザニアの諸教会の兄姉からメッセージを受けた。「日本のために祈っています。主が一人ひとりを励まし慰めてくださるように。また、このことを通して日本の人々が天地を造られた主を知ることができるように。」 日本の教会もタンザニアの教会もともにキリストのからだであり、そのかしらはキリストである。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(Ⅰコリ 12:26)。
祈祷課題 1. タンザニアに住むムスリムの方々、マコンデやマラバの人々が一人でも多く、キリストの十字架によって明らかにされた主の愛を知ることができるように。 2. すべてのいのちの息を握っておられる主が世界中から人々を送って、ムスリムの方々がキリストの福音を聞くことができるように。
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