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マタイの福音書の恵み ⑮
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復讐に関するイエスの解釈 ② |
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オンヌリ教会 主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
この世の法は、悪には悪で報いますが、イエスは善をもって悪に打ち勝つように言われます。暴力には暴力で、復讐には復讐で報いる所では、暴力と悲惨な復讐が繰り返されるだけです。イエスは、剣を取る者は剣で滅びると言われました。 では、どのようにして善をもって悪に打ち勝ち、どのようにして愛をもって憎しみに打ち勝つことができるでしょうか。イエスは四つの例をあげて教えてくださいました。まずは、一つめの例である、あなたの右の頬を打って侮辱する人にどう接するかについて見ていきましょう。
報いは私のすることである 「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタ 5:39)。 皆さんは、頬を打たれたことがあるでしょうか。頬を打たれるというのは、尊厳と人権が踏みにじられるということです。特に、右の頬を打たれるとは、右利きの人が右手の甲で打つということで、それは、ユダヤのラビたちの場合、2倍の侮辱を意味します。 また、頬だけでなく、ほかの暴力が振るわれることもあります。特に、お金や酒、ギャンブルにおぼれた人は、はるかに残忍で恐ろしいものです。 誤解してはならないのは、酔っ払いや暴君、悪人が私たちを打つとき、ただ打たれていなさいという意味ではないということです。そんな人々に、左の頬まで差し出せという話ではありません。そんなときは、早く逃げたほうがよいのです。 では、左の頬も打たれなさいとはどういう意味でしょうか。それは、復讐と報復のために悪を用いてはならないという意味です。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」(ロマ 12:19)とあります。その人を悔い改めさせて新しい人へと生まれ変わらせるか、むちで打つか、そのどちらかで神が報いをされるということです。神は、私たちを愛しておられるので、私たちの手が血で汚れるのを望まれません。私たちの口にののしりのことばを語らせません。ただ、「あなたは愛しなさい。あなたは喜んで対処しなさい。赦しなさい。報いはわたしがする」と語っておられるのです。 これは、歴史の理解にも同じく適用されます。組織的な悪においても同じです。キリスト教には、革命ではなく血を流さない改革があるだけなのです。従順と赦しによって打ち勝ちましょう。そうでなければ、流血を繰り返す原因となってしまいます。 次に、実際の生活で左の頬を向けた人の例を見てみましょう。 実際に左の頬を差し出した人々 ある有名なボクサーが、主に立ち返りました。すると、普段から彼を恐がっていた人が、あの強いボクサーがイエスを信じて変わったという話を聞いて、突然彼を殴りつけました。そのボクサーには殴り返す力がありましたが、殴られながら「主よ、私の罪を赦してくださったように、この人の罪をも赦してください」とただ一言言ったそうです。その後、殴った人はボクサーの態度を見て悩み、ついに彼もイエスを信じるようになったということです。 有名なハドソン・テイラーが中国にいたとき、伝道するために中国人の格好をし、川を渡るために舟を借りました。ところが、ちょうどその場に傲慢な金持ちが居合わせました。ハドソンが舟に乗ろうとすると、その金持ちは自分が乗ると言って、ハドソンを腕力で泥の中に押し倒してしまいました。しかし、ハドソンは怒ったり、ののしったりせず、微笑みながら泥の中から起き上がりました。船頭は、その金持ちに「この舟はあなたの借りた船ではなく、この方が借りたものです。この方は外国の方です」と話しました。ハドソンは、その金持ちにいっしょに乗って行きましょうと言いました。その金持ちは、非常に大きな衝撃を受け、クリスチャンになったそうです。 アメリカに、クリーニング屋を営む誠実なクリスチャンがいました。ところが、ある意地悪な人が、自分の大事にしている服がクリーニング屋でなくなったと町中に言いふらし、どろぼうだと騒ぎ立てました。そして、クリーニング屋の主人に服を出せと一週間嫌がらせをしました。しかし、その主人は全く腹を立てずに、そんなはずはありませんと謙遜に答えました。一週間後、その服は罵った人の家で見つかりました。その後、クリーニング屋の主人の態度に感動したその人は、イエスを信じるようになったということです。 人が私たちを侮辱し、ののしるとき、怒らず、むしろその人のために祈り、時間が経って解決されるのを待つ態度、それこそが左の頬まで差し出すクリスチャンの態度ではないでしょうか。しかし、私たちは小さなことでどれほど声を荒げて興奮し、腹を立て、我慢できずにいるでしょう。きょう、イエスは「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい」と言われます。この模範をイエスは実際に示してくださいました。 鉄の受け皿になるべきクリスチャン 「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」(イザ 50:6)。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Ⅰペテ 2:22~23)。 今、悔しい思いをしているでしょうか。侮辱に耐えるのが伝道です。皆さんがここで腹を立てて声を荒げれば、伝道は終りです。あとでいくらよいことを言っても、その人は耳を貸さないでしょう。私たちを侮辱して人権を踏みにじる人に、愛をもって近寄りましょう。相手の人格を尊重して接してください。時間との戦いをしてください。私たちは、必ず勝利します。歳月が流れると、彼らは私たちをまぶしく見るはずです。「あの人には、私たちにはないものを持っている」という力を、私たちは示すべきです。 スポルジョンは、「世の人が鉄の金づちで打とうとも、クリスチャンは鉄の受け皿でなければならない。石で打ち殺されそうなとき、『主よ、彼らの罪を赦したまえ』と天使の笑みを浮かべる人、それがクリスチャンなのです」という有名なことばを残しました。 私たちはこのように祈りましょう。「主よ。私たちは些細なことにあまりにも簡単に腹を立て、小さい侮辱に耐えることができず、人から尊敬されないと我慢できません。私たちが主を見上げるとき、私たちにも主のような深い品性を与えてくださり、左の頬までも向けることのできる信仰を与えてください。」
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