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聖徒の敬虔訓練⑱
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幸せと敬虔訓練 |
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ホン・インジョン ● 長老会神学大学 実践神学教授
だれでも幸せな人生を望んでいます。しかし、幸せを満喫しながら生きる人はそれほど多くはないようです。英語の“Happy”の語源は、幸運を意味する“hap”に由来しており、「(神の許された)良い時間」というキリスト教的な神の概念を含んでいます。一方、アジアでは、これと似た概念がないために、物質的な豊かさを表現する二つの漢字「幸」と「福」をくっつけて「幸福」という造語が作られました。 かつて、韓国では「安心」「安楽」ということばを使いましたが、これは物質的な豊かさよりも平安な心、楽しみを意味しています。このように幸せとは、心の平安、喜びを意味する安心や安楽と相通じるものと見ることができます。ですから、クリスチャンにとっての幸福は「神が私たちに与えてくださった良い時間、喜び、平安を感じる心の状態」と見ることができるでしょう。
世的な観点からの幸福感 幸せには二つの側面があります。それは「幸せを持つこと」(宝くじや偶然の出来事によって手に入れる利得)、「幸せを感じること」(主観的な感情状態)です。良い方向へと人生が転換するならば、幸せが訪れると考えますが、環境が変わってもすぐにそれに慣れてしまうので、決して満足できないという点に問題があります。したがって、幸せの瞬間を体験することはできますが、持続的な幸せの状態や満足感を感じつつ生きていくのは簡単ではありません。 イギリスの心理学者ロズウエルとカウンセラーのコーオンは、「幸せは、人生観や適応力、柔軟性など個人的な特性を表す“P”(Personal Characteristics)、健康やお金、人間関係など生存の条件を指す“E”(Existence)、野望、自尊心、期待、ユーモアなどの高次元状態を意味する“H”(Higher Order Needs)の三つの要素によって決定される」と主張して、「幸福=P+(5×E)+(3×H)」という公式を作り出しました。 しかし、多くの研究と調査にもかかわらず、幸せを評価し、測定するのは、簡単なことではありません。幸福感は客観的な事実ではなく、主観的な経験(感情状態)から来るものだからです。
幸せを与えてくださる三位一体の神 父なる神は、私たちに良いものを与えてくださる方です。神はアダムとエバを創造され、彼らに祝福を与えられました(創 1:22, 28;5:2)。神はノアとその息子たちに(創 9:1)、アブラハムに(創 12:2~3;18:18;22:17~18)、イシュマエルに(創 17:20)、イサクに(創 25:11)、祝福を与えられました。パウロはテモテに、「神は祝福に満ちた唯一の主権者」(Ⅰテモ 6:15)と宣言しています。神は「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物」(ヤコ 1:17)と祝福を与えてくださる神です。 子なるイエスは、山上の垂訓を通して、どのような人が祝福された幸いな人かについて語っています(マタ 5:1~12)。子なるイエスは、その祝福に満ちたご自分の人生、天の御国の民としての生き方を示し、そのような人生を生きるように招かれた方です。そのイエスに、「満ちあふれる祝福」(ロマ 15:29)があり、「天にあるすべての霊的祝福」(エペ 1:3)があります。 聖霊なる神は、約束された祝福を受け取るように導かれます。パウロは、「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」(ガラ 3:14)と言いました。また、ペテロは、「もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(Ⅰペテ 4:14)と宣言しました。聖霊なる神は、約束されたものを成就させ、苦難と迫害の中にあっても忍耐を与え、勝利させてくださり、祝福を味わえるようにしてくださる方です。
聖書の幸せ 旧約聖書の祝福、幸せというヘブル語の単語は「うまくいく、進歩する」という動詞から発生した名詞で、箴言や伝道者の書でおもに使われています(詩 128:2、箴 14:21;16:20;29:18、伝 10:17、イザ 32:20など)。詩篇の著者は、幸せは神を恐れ敬い、みことばに従って生きる人たちに対して、その労にふさわしく財産を得る祝福と成功にあると語っています(詩 128:1~2)。疲れた者をあわれむ人(箴 14:21)、神に拠り頼む者(箴 16:20)、神の律法を守る者(箴 29:18)も、幸いな人です。 ギリシャ語で「祝福」、「幸せ」と翻訳される単語は、おもに霊的な祝福を表現する単語です。パウロはガラテヤの教会の人々に、自分を受け入れてくれたことを思い出し、その喜びが今どこにあるかと言って、その残念な思いを表現しています(ガラ4:15)。ガラテヤの教会が奉仕とささげものを通して受けていた霊的な祝福を失ったことを惜しむ表現です。ローマの聖徒に書いた手紙にも、行いではなく恵みによって義とされた人たちが祝福を受けたのであって、それは不法を赦され、罪を覆われた状態であると書かれています(ロマ 4:6~9)。 また、私たちは信仰によって、罪の赦しと神の御前に義とされた祝福を味わうことができるのです。
日常生活で幸せを経験する クリスチャンの幸せは、「神が私たちに許してくださった良い時間と楽しみ、平安を感じる心の状態」と定義することができます。パウロは、牢の中でも、「いつも喜んでいなさい」と勧め(ピリ 4:4)、どのような状況であっても満ち足りることを学んだと言っています(ピリ 4:11)。また、満ち足りる心を伴う敬虔こそ大きな益を受ける道(Ⅰテモ 6:6)であるとも言っています。では、何が彼を満ち足りる状態にして、幸せを感じさせたのでしょうか。 一つめに、神の救いを受け取るなら、それがまことの幸せです。申命記では「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう」(33:29)と語っています。神が彼らを助ける盾となり、守ってくださるからです。幸せは神の救いの中に入ることから始まります。 二つめに、幸せは選択です。神はイスラエルの民に「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く」(申 11:26)と言われました。毎日の生活で、祝福、あるいはのろいを選択することができます。「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を」(申 11:27)、すなわち、神のみことばに聞き従うことが祝福であるという意味です。祝福された人生の条件として、信仰をあげている個所が新約聖書に多く見られます(ルカ 11:28など)。幸せが主観的経験や心の状態であっても、日常生活で幸せになろうと決めて選択する心の実践が伴わなければなりません。私たちは悪を悪で報いる代わりに、祝福を祈ることができます(Ⅰペテ 3:9)。アブラハムを通して異邦人に祝福が与えられたように(創 12:3)、私たちは隣人や家族が幸せになるために召されたのです。ですから、神はアブラハムに「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす」(ヘブ 6:14)と言われたのです。 三つめに、与えるときに幸せを感じます。どれほど多くのものを所有しているかよりも、持っているものをどのように使うかによって幸せは決定されます。所有物ではなく、すべてのものを与え、楽しませてくださる神に望みを置くときに幸せになり(Ⅰテモ 6:17)、それをほかの人と分かち合うときに幸福感は倍になります(使 20:35)。 四つめに、幸せを頻繁に口に出して宣言することです。なぜなら、幸せは人の内から出てくるからです。ですから、自分が認めることによって不幸になることもあるということを覚えてください。試みに耐えること(ヤコ 1:12)、ヨブのように忍耐すること(ヤコ 5:11)、義のゆえに苦難を受けること(Ⅰペテ 3:14)が、祝福になることを信仰によって宣言してください。他人と比較すると不平不満はふくらみ、人をうらやむと不幸になります。持っているものに満足し、ことばで幸せを宣言するなら、むしろそれを通して幸せが訪れるのです。 五つめに、たくさん笑うと、幸せになります。笑えることがないから笑わず、笑わないから笑えることがなくなっていくのです。笑顔でいるなら満足感、幸福感は増大します。笑うためには人とともにいるべきであり、人とともにいると幸せになります。私たちには、友だちと家族が必要であり、孤独で人の助けを受けられないのなら、それは不幸なことです(伝 4:9~10)。人といっしょに笑えるなら、幸福感は増すのです。 最後に、小さなことに感謝を表現すると、幸せになります。感謝を表現すればするほど、幸福指数が上がります。小さなことにも感謝をするとき、幸福感は増します。否定的な情報を与える人や媒体と距離を置き、感謝することに焦点を合わせるなら、幸福感はだんだん増していくことでしょう。 幸せに生きることは、神との関係においてのみ可能なことです。幸せと敬虔訓練を別々に考えることはできません。敬虔訓練とは、「神に似た品性が、自分の生き方に良い影響力を与え、それを広げていく訓練」です。神に似た良い品性は、環境とは関係なく幸せな心の状態を維持するように導きます。その品性が、ことば、笑い、感謝、対人関係、貧しい心など、人生の全領域において、幸せの影響力を広げていくからです。
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