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マタイの福音書の恵み ⑫
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姦淫に関するイエスの解釈 ② |
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オンヌリ教会 主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
鳥が巣を作らないように 聖書は「姦淫してはならない」と言います。そして、イエスは一歩進んで「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタ 5:28)と、その問題を深く解釈されました。このみことばは、どれだけ罪が深刻であるかを示しています。興味深いことに「女を見て」の「見て」は、現在分詞形となっています。女を一度見て、一瞬衝動を受けることはあります。しかし、ここで言っているのは、ある意図を持って継続的に見ることです。また、わいせつな雑誌を意図的に見ること、わいせつな映画を意図的に見に行くことなども問題になります。 鳥が私たちの頭の上を飛んでいくのは、私たちの過ちではありません。しかし、私たちの頭に巣を作るのは私たちの過ちです。一瞬、健康な男と女が性欲を感じるのは仕方がありません。しかし、そこに健全でないサタンの意図が介入し、それが不適切な関係になることを聖書は警告しています。 現代人は、罪をしきりに普遍化し、心理学的に解釈しようとします。しかし、聖書は反対に、罪をより本質的に、具体的な実体として糾明しようとします。そのため、人々は心の罪を指摘されると、だれも安心して休むことができないため、みな逃げてしまうのです。これが、罪の深刻な末期症状です。罪の問題は、本質的なところまで、深く到達しなくてはなりません。罪の問題を正直に取り扱わないなら、決して救いの問題を解決することはできません。 自分の心の罪は隠して、「私は罪人ではない」と堂々と主張する人を見ると、いかに罪が狡猾なものかがわかります。姦淫の場合も同じです。「私は、決して姦淫を犯したことはなく、きよい」と主張する人には、私はこのように質問をします。ほかの人の離婚やスキャンダルに関するゴシップを一字一句逃さず読んでいませんか。名作やベストセラーを読んでいるのだという理由をつけて、不道徳な性的な描写を読む理由は何ですか。また、なぜ週刊誌や月刊誌は低俗だと文句を言いながらも隠れて読むのですか。なぜ、わい談を聞くのを好み、語るのを楽しんでいるのですか。理由は簡単です。ほかの人のわいせつな行為を代わりに楽しんでいるのです。これが私たちの心の姿であり、イエスの観点から見ると、すべて姦淫を犯した者なのです。私たちはこれを認め、謙遜に主の前に立ち返り、きよめられるように祈らなければなりません。イエスは、私たちがどのようにするべきなのかを、次の個所で教えられます。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです」(マタ 5:29~30)。
目をえぐり出し、 手を切り捨てたように行動しなさい このみことばを守るために、実際に去勢をした神学者もいました。また、ギャンブル中毒になっていた人が、もうしないことを決心し、手を切断したという話もあります。しかし、このみことばの本当の意味は、実際に目をえぐり出し、手を切り捨てなさいという意味ではありません。マーティン・ロイド・ジョンズは、「あなたがもし罪を犯し、右の目を取り除いたのに、左の目がまた罪を犯せば、左の目も取り除きますか。右の手を切ったのに、また罪を犯したらどうするのですか」と言いました。肉体をいくら切り取ってもどうにもなりません。性的な誘惑やギャンブル、酒、たばこは、肉体の力では取り去ることはできません。聖霊によって新しく生まれなければなりません。そうしなければ、だれも肉体を制御することはできません。ですから、このみことばの正しい意味は、目をえぐり出したように、手を切り捨てたように行動しなさいということです。つまり、手や目を失ったために以前の状態に戻れないように決断し、行動しなさいという意味なのです。では、実生活において、どのようにすればそのように生ることができるかを考えてみましょう。
油に火をつけると 油に火をつけるとどうなるでしょうか。よく燃えます。性的な不品行やわいせつの可能性のあることは、避けるべきなのです。 一つめに、肉体をよく管理してください。主は、情欲のために体を使ってはならないと言われました。私たちの体は、そのままにしておくと、限りなく行儀が悪くなるという非常に悪い習慣があります。ですから、私たちは体をよく治め、訓練しなくてはなりません。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです」(ロマ 8:13)とある通りです。 二つめに、愚かなことばやあざけりのことばに注意してください。「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません」(エペ 5:3)。わいせつな写真やアダルトビデオを見ながら罪を犯さないという愚かな考えをしないでください。私たちを誘惑するすべての要素を根本的に切り捨ててください。手を切り捨てたように目を取り去ったように、抜き取ってください。そうするとき、私たちの個人生活と家庭生活は敬虔になり始めます。 罪を犯しやすい仕事をしている人は、早く仕事を変えてください。その中で罪を犯さないように足踏みしてもむだです。占いやインターネットの有害サイトなど、罪を犯すように誘導する媒体を早く断ってください。そうしなければ、私たちはこの性的に堕落した世代において、神の聖徒としてきよく生きていくことはできません。 最後に勧めるのは、何よりも絶えず目を覚まして祈り、みことばの中で聖霊に満たされることです(エペ 5:18)。そして、十字架の血潮に頼ってください。私たちの力ではできません。ただ聖霊の力によって、私たちはきよめられるのです。 愛する聖徒の皆さん。“Purity is Power”、つまり、私たちが純潔であることが力なのです。皆さんが神の力で満たされ、きよくあることを願います。私たちの人生が終わるまで、私たちが主の前に立つ日まで、きよく美しく生きて、主の御前に出ることができるようにお祈りします。
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