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マタイの福音書の恵み ⑪
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姦淫に関するイエスの解釈 ① |
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オンヌリ教会 主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
マタイの福音書5章21~26節で、イエスは殺人の本来の意味を教えられましたが、続いて姦淫についても律法学者とパリサイ人の誤った考えを示されました。 「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタ 5:27~28)。 律法学者とパリサイ人は、十戒の第七の戒めである「姦淫してはならない」(出 20:14、申 5:18)を歪曲して教えていました。彼らは、女を見て心の中に汚れた情欲を抱こうと、ほかの人の妻を欲しがろうと、実際に姦淫を行わなければ、それは第七の戒めを犯すものではないと、神のみことばを縮小して適用しました。ですから、自分たちは罪がないかのように偽り、きよいふりをして神殿に現れ、供え物をささげました。それだけでなく、弱さのために姦淫を犯した人々を厳しく罪に定めました。しかし、イエスはこのような偽善を指摘され、姦淫を正しく定義し、解釈されました。つまり、姦淫を犯すだけでなく、女を見て心に情欲を抱く者までも姦淫の罪を犯したのだと言われたのです。このようなイエスのみことばの中から、重要な二つのメッセージを見出すことができます。
心の中を見られるイエス 一つめに、イエスは行いと動機を同じように見られます。つまり、心の中に汚れた考えや悪い動機を持つことも罪ですが、それを隠し、外見は善良であるかのように偽ることは、さらに憎むべき罪です。このように、イエスの罪に対する観点は、いつも内面的なことにあり、行い自体はもとよりその動機にあります。心を重視されるイエスが、実際にこれを適用している例があります。 ヨハネの福音書4章で、スカルの町のひとりの女を紹介しています。彼女は夫が5回も変わり、現在生活している男性ともいつ別れるかわからない関係にあります。人が彼女を娼婦だ、悪い女だとあざけり、嫌ったため、彼女はひどく傷ついていました。そのため、日が暮れて涼しくなってから水を汲みに行くことができず、日が強く照りつける12時の人のいない時間に水を汲みに行ったのです。しかし、イエスは、この女の外見ではなく心の中を見られ、彼女に近づき、話しかけてくださいました。彼女は、外面では夫を5回も変えました。内面では神を求めているのをイエスは知っておられたのです。 イエスは、遊女や取税人であっても、悪霊につかれた者や病人であっても、心から神を愛し、救いとメシヤを求めている者なら、いつでも会ってくださいました。きょう、皆さんはどのような心でいるでしょうか。イエスに会いたいというへりくだった心を持っているならば、心の中を見られる主は、必ず皆さんに会ってくださり、なぐさめ、祝福してくださいます。 また別の例は、ヨハネの福音書8章にある姦淫の現場でつかまえられた女の話です。この女を石打ちにしようと多くの人が手に石を握っていました。もちろん、姦淫の現場でつかまえられたので、女は明らかに罪を犯し、それは間違ったことでした。しかし、イエスが彼女に会ってくださったのを見ると、彼女は心から深く後悔していたことがわかります。ことばにもできない後悔と恥の中で、彼女の心は貧しい状態になっていたはずです。石打ちにされるのも当然で、神も自分を捨てたと考えたはずです。しかし、イエスはへりくだって悔い改める人を喜ばれ、近づいてくださいます。「この女をどうしましょうか」と尋ねられたイエスは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と答えられました。これは、石打ちしようとする人々の良心に向かって言われたみことばでした。そして、このみことばを聞き、自分の心の罪を見た人々は、年長者から若者まですべてその場を立ち去り、女だけが残されます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」(ヨハ 8:11)。 「愛する兄弟姉妹よ。わたしは、あなたの心の中を知っている。あなたが苦しみ、涙を流し、難しい中にいるあなたの心を知っている。わたしはあなたを罪に定めない。行きなさい」と今日の私たちに語ってくださる方が、まさにイエス・キリストです。 その反面、イエスは、外面では完璧に罪を犯さず、律法的に傷のない律法学者とパリサイ人に「わざわいだ」と7回も繰り返し言われました(マタ23章)。彼らのことを、たとえ外面はきよくても、手には貪欲と放蕩があふれ、ねたみと嫉妬と不品行と殺人が満ちていると言われました。 神を本当に愛しておられますか。習慣的にイエスを信じてはいませんか。または、外見に現れる宗教的な熱心のために思い違いをしてはいませんか。やもめのレプタ銅貨2枚を投げ入れる心が、主の御前で恥ずかしくて顔もあげることができずに地に伏して祈る心が、私たちにもあることを願います。主は、私たちの内面を見ておられます。
恐ろしいガンのような性的堕落 二つめに、聖書は昔も今も変わらず姦淫してはならないと教えています。このみことばほど、今を生きる私たちに切実なみことばはありません。世界の大きな都市は、姦淫する都市のようです。その堕落はことばでは言い表せません。 十戒において、神は、家庭のきよさを守るために両親を敬いなさい、社会のきよさと秩序を守るために殺してはならない、夫婦のきよさを守るために姦淫してはならないと言われました。しかし、イエスは性欲を持ってはならないと言われたのではなく、姦淫してはならないと言われたことに注意しなければなりません。神から与えられた自然な性欲が悪いのではなく、サタンが与える淫乱な情欲が悪いのです。ですから、夫婦関係における性欲は悪いものではなく、夫婦の性的な喜びは神からの大きな祝福です。結婚した信徒が性的な満足と喜びを持つことは、神の御心です。 姦淫とは、不義で間違った性欲であり、関係のことです。正しくない関係における性的な堕落は、人間のたましいを破壊し、家庭を破壊する恐ろしいガンのようであり、爆弾のようなものです。しかし、寝室にまで堂々とアダルトビデオが入り込み、映画や新聞、雑誌やテレビなどの媒体を通して性的な乱れが蔓延しています。洪水のように押し寄せてくる性的な腐敗と堕落を、政府や軍隊は防ぐことができません。国が、政治的経済的な思想のためでなく、道徳的、性的な腐敗のために滅びてしまうのではないかと心配でなりません。どの先進国でも、麻薬や性病、道徳的堕落をどうすることもできないでいます。 私は、若い世代にとって何よりも重要なことは、道徳的純潔を守ることであると思っています。しかし、最近の若者は、道徳的純潔を守ることはくだらないことで、結婚の前に性経験があるのが当たり前であると考えています。これは危機です。道徳的堕落は、政治や経済の堕落よりも大きなものです。このような危機に直面していることを、教会は深刻に悟らなければなりません。
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