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マタイの福音書の恵み ⑩
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殺人に関するイエスの解釈 ② |
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オンヌリ教会 主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタ 5:21~22)。 私たちは、実際には人を殺してはいませんが、人を殺したいほど憎むことがあります。イエスは、心ではだれかを一生憎みながら生き、外見は敬虔なふりをしている人に、殺人者だと言われました。殺人は三つの内容に含まれています。
怒りは殺人を含みます 一つ目は、怒りです。「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」(22節)。怒りは殺人と同等であると言われます。もちろん、ここで怒りとは、正しくない怒り、つまり、高慢と憎しみと悪意に満ちた復讐の感情から来る怒りを意味します。時には、義の怒りを抱くこともありますが、たとえそのような怒りであっても、私たちは罪人であるため、その怒りを爆発させる過程において罪を犯すことになります。 モーセを例にすると、愛国心によって同族を助けるとき、殺人を犯してしまいました。愛国心が殺人にまで及んでしまったのです。これが罪の性質を持つ人間の姿なのです。しかし、私たちはほかの人を愛し、赦し、理解するために、神から召しを受けたのです。 世が悪くなったのは、私たちが他の人を罪に定め、告発しなかったからではなく、私たちが正しく生きることができなかったからです。ほかの人の過ちを取り除くことができなかったからではなく、私たちが世の光であり塩になることができなかったために、さらに大きな問題が生じたのです。もし、私たちが私たちの立場と置かれているその場で、公正に、正しく、正直に神の御心のままに生きているなら、私たちの周辺だけでもきよいはずであり、私たちの属しているところだけでも静かなはずです。 小さな怒りを抱かないでください。罪は罪を生み、怒りは怒りを生みます。小さな怒りが積もれば、怒る体質になります。公然と怒り、大声で叫び、殺気立った、強情な目で人を見るようになり、目は血走り、恐ろしい人に変わり、挙句の果てにはほかの人も殺し、自分も殺す状況になってしまいます。私たちは、怒りを爆発させるのではなく、神の公義を信じ、光と塩として生きるよう努力するべきです。これが唯一の解決策です。
ののしる者が受けるさばき 二つ目は、ののしりです。「兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(22節)とあります。「ラカ」(新改訳では「能なし」と訳された)ということばは、ほかの人を軽蔑し蔑視するヘブル人の悪口であり、使いものにならない者、頭が空っぽな者という意味です。怒りがあると、その次の段階で現れるのがののしりであり、ののしりもまた殺人と同じなのです。 「蛇のように、その舌を鋭くし、そのくちびるの下には、まむしの毒があります」(詩140:3)。同じことを言っても、ほかの人の心をずたずたに引き裂いてしまう人がいます。なんでもない言葉でも、その人が言うとひどく恐ろしく鋭いものになってしまうのです。また、よい言葉をかけられてもそれを純粋に受け入れることができない人がいます。花を一輪あげても、どんな下心があるのかと問い詰め、計算するのです。これは危険な性質であり、殺人にまで至ることもあると、聖書は言っています。
ほかの人をばか者と言う者は 三つ目は、ほかの人をのろう性質です。「また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(22節)。怒りは殺人の後ろに隠れている罪です。ののしりは怒りを抱く人が注ぐ言葉です。ののしり続けると、ほかの人を罪に定め、無視し、軽蔑する性格が形成されてしまいます。イエスはこれらすべてが殺人の性格をすでに持っていると言われました。 ほかの人を軽んじたり無視する態度を取らないでください。イエスは私たちに弟子たちの足を洗う姿を見せてくださいました。ほかの人を殺したいほど怒りを抱いたことはありませんか。我慢していても、ある瞬間に、聞いている人の心臓をえぐり出し、たましいを窒息させるほど恐ろしくののしったことはありませんか。あるいは、いつもほかの人を軽んじて、蔑視する態度を取ってはいませんか。悔い改めてください。ほかの人のいのちを殺すことだけが殺人なのではなく、これらのすべてが殺人の範疇に入るのです。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Ⅰペテ 2:22~23)を読み、イエスを黙想してください。
まず行って、早く このようなみことばを言われたイエスは、結論として二つのことを勧めます。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、・・・まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」(23節)と、「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい・・・」(25節)です。 これは、怒りとののしりと他の人を蔑視する態度を取る者に、イエスがくださった解決方法です。23節の対象は教会であり兄弟であり、25節の対象は世であり敵です。これは教会の中と外で、兄弟たちと敵たちにどのように接するべきかを示しています。この二つの共通点は、両方ともこじれた関係であることと、緊急性を持つということです。イエスは供え物を祭壇の前に置いたまま、まず和解をするように言われました。礼拝は、クリスチャンにとって非常に重要です。しかし、もし兄弟を赦すことができず、怒りを抱き、ののしり、憎んだままで礼拝をささげるなら、神はそのような礼拝は受け取られないということです。 神が喜ばれる供え物は、目に見える豪華な礼拝儀式ではなく、一人の兄弟と手をつなぎ、涙を流しながら悔い改め、戻って来て神にささげる供え物であると教えています。 憎い人がいますか。罪と不義は憎んでください。しかし、その人は赦してください。そして、和解してください。「まず行って仲直りしなさい」というみことばを行う奇蹟が、私たちにありますように。どうぞ赦すことを決心してください。だれかの過ちを問い詰めず、主のみことば通りに、私たちの心を開いてください。互いに赦し、赦される者になることを願います。主は私たちに、考えてからゆっくり決めなさいとは言われず、今この場で決めるように言われます。私たちの人生が神の恵みで満たされますように。
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