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聖徒の敬虔訓練⑫
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笑いと敬虔訓練 |
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ホン・インジョン ● 長老会神学大学 実践神学教授
笑いには、良い笑いと悪い笑いがあります。辞書には、「微笑」など肯定的な意味を持つことばがある一方、「苦笑」「冷笑」「嘲笑」「失笑」などの否定的な笑いもたくさん出てきます。聖書にも、あざ笑う、笑いぐさ、笑いものになるなどの表現が使われています(詩 40:15;44:13;79:4)。「笑いがこみあげる」という表現があるように、笑いは内側から出てくるものです。辞書的な意味で、笑いとは、身体刺激、喜び、こっけい、笑いを誘うおもしろさ、照れ、演技、病から来るものに分類されます。 笑いは、敬虔な生活とは縁のないもの、かけ離れたもの、あまり関係のないものと考えられがちです。成熟したクリスチャンは、真摯で真剣で、寡黙で無表情で、ひたすらに道を求める人物と思われがちです。しかしイエスの恵み、神の愛、聖霊に満たされた人は喜びにあふれ、その喜びが顔と態度に表れなければなりません。詩篇の著者は、捕囚から帰還する日には、「私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」(詩 126:2)と告白しています。ですから、イエスによって罪から解放されたクリスチャンがいつも微笑をたたえているのは至極当然のことです。では、三位一体の神は笑いを持っておられるのでしょうか。また、笑いを生活化する敬虔訓練は、私たちに必要なのでしょうか。
喜ばれる三位一体の神 笑いをくださる父なる神 神は、カルデヤのウルでアブラムを召しだされ「・・・わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる」(創 12:1~2)と、子どものないアブラムとサライ夫婦に、多くの国民の父と母となると言われました。創世記17章17節を見ると、「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歲の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歲の女が子を産むことができようか』」と言いました。そして、女奴隷のハガルを通して生まれたイシュマエルが神の御前に生きながらえるように願います。 また、神が子どもを与えると言われたとき、アブラハムもサラも笑いました(創 18:10~15)。それは喜びと感謝の笑いではなく、子どももないのに神がそのようなことを語られたので不意に出た笑いです。しかし、神がアブラハムとサラに与えた子の名は「笑い」、すなわちイサクでした。「笑い」という名をつけてくださった神は、私たちにまことの笑いをくださる方です。 「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(ゼパ 3:17)とあるように、私たちを見て喜んでおられる神は微笑まれる神です。ダビデも告白し、賛美しています。「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します」(詩 30:11~12)。このように、神は私たちに笑いをくださる方です。
笑いの源である父なる神 聖書にイエスが笑われたと書かれているところはありませんが、間接的な表現はあります。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。『子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。』そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた」(マタ19:13~15)。子どもたちがイエスの近くに来たというのは、イエスが明るい表情と笑顔で子どもたちを迎えてくださったということです。子どもたちは笑わない大人には近づかないものです。 そして、イエスは「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです」(マタ 5:11~12)と言われました。イエスは山上の説教で、喜びながら笑顔で勝ち抜くのが祝福された人生であると教えられました。 また、イエスは十字架の道から逃げ去っていく弟子たちに言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」 (ヨハ 15:11)。イエスの喜びの中にある弟子たちは、苦難と迫害の中でもその喜びによって満たされています。喜びをあふれさせてくださるイエスは、喜びと笑いの源である子なる神なのです。
笑いを回復してくださる聖霊なる神 聖霊に満たされた人を甘いぶどう酒に酔っているとあざけった者たちに、ペテロはダビデのことばを引用し、「それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう」(使 2:26)と証ししました。心の喜び、唇の喜びは、希望のあふれる笑いと分けて考えることはできません。また、その聖霊の臨在の証しは「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使 2:46~47)ということです。聖霊がともにおられるとき、まことの交わりと喜びと賛美があり、人々から賞賛されるのです。笑いを見出させてくださるのは聖霊なる神だからです。 笑いを創造された父なる神、死に打ち勝たれ、復活の希望と喜びとなられた子なる神、喜びを見出させ、人生に喜びを与えてくださる聖霊なる神は、三位一体の笑いの神です。
日常で微笑みと笑いを保ち続けましょう 私たちは、どれくらい生活の中で笑っているでしょうか。子どもは、生後2~3ヶ月から笑いの回数が増え、1日400回以上笑うと言われています。しかし、大人になるとだんだん笑いを失っていき、1日100回から平均14回まで急激に減少し、さらには1日1回も笑わない人も多いそうです。パウロはテサロニケの聖徒たちに「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサ 5:16)と教えています。このみことばは、いつも喜んでいないことを前提としています。喜びも笑いも生まれてこないとき、どのようにして喜び、笑う生活に移っていくことができるでしょうか。 一つめに、ただ単に、理由もなく笑ってみることです。「おもしろければ笑う」と思われがちですが、おもしろくなくても笑うことはできるのです。無理やり笑ったとしても、それが本当の笑いとなることもあります。ですから、笑いは訓練なのです。私のために神がくださった美しいみわざを覚え、にっこりと微笑み、口角を上げてください。「良い返事をする人には喜びがあり、時宜にかなったことばは、いかにも麗しい」(箴 15:23)とあります。心の喜びを、適切に表現するのは麗しいことです。笑いで1日を始め、ただ笑うという訓練をしてください。 二つめに、微笑みと笑いは、個人の失敗を分かち合い、覆い合うときに有効です。日常で喜びを実践し、自分の失敗を「笑いの梃子」として利用し、ほかの人々といっしょに笑って済ますくらいの大胆さを持ってください。サラは「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう」(創 21:6)と告白しています。サラの話を聞いた人々は、イサクとサラを交互に見て笑ったことでしょう。このように神は、私たちに笑いをくださり、生活の中で笑いを見出させてくださいます。 三つめに、平凡な日常の中に「驚き」を回復してください。笑いの生活をするようになると、新しい目が与えられます。それを通して物事や起きたことを見つめると、日常に驚きを見出せるようになります。聖書には「喜んでいなさい」とあります。そして聖霊が臨在されれば、喜びがあふれ、微笑みと笑いが約束されています。新しい目で驚きを探し、その中で自分を新しく発見し、見たことを分かち合いはじめると、その中に微笑みを与えてくれるような話題が豊富になっていきます。 最後に、おもしろくて笑える話やユーモアをメモする習慣をつけてください。神はアブラハムとサラに「笑い」という息子、イサクをくださると約束されましたが、その約束が成就する時まで、長い時間が必要でした。25年が過ぎて神の約束の時になった時に約束は成就され、まことの笑いを見出すようにしてくださいました。 アブラハムは175歳まで生きましたが、75年という歳月を息子イサクによって笑いと喜びの中で過ごすことができました。神の約束を信頼すれば、その約束が成就し、後の日に笑いはさらに大きくなります。 神はアブラハムとサラに笑いの人生を与えようと計画され、その摂理はイサクを通して成就されました。また「笑い」という贈り物を受けて生まれたイサクの人生は、両親と人を楽しませるものでした。神は笑いを回復したアブラハムとサラを通して、笑いの人生を贈り物としてくださり、隣人と分かち合うようにされました。笑いは、私たちの人生に花を咲かせる力を与えてくれます。笑いは人生に動機を与え、新しく出発できるように勇気を与えてくれます。このような笑いの人生は、日常生活の中で笑いを選択する小さな決断から始まるのです。
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