佐藤浩之 ● 南米宣教会
私は1963年、19歳の時に単身でブラジルに農業移民として渡り、アマゾンの胡椒栽培の農場で働いていましたが、そこである宣教師に導かれ、23歳の時に入信、2年後に献身して帰国しました。神学校の学びを終え、牧会もしておりましたが、1977年、南米宣教会からブラジルに、今度は宣教師として派遣されたのです。今までに3教会の開拓伝道を終え、現在は、オザスコ教会とサンジョゼー教会を隔週に訪問して日本語伝道部で宣教協力をしています。 ブラジルは日本の23倍もある大きな国で、人口は約1億9千万です。ブラジルは1500年代からヨーロッパ人やアフリカ人、アジア人などが移民して作り上げた多民族国家ですが、人種差別はほとんどありません。ポルトガル語が共通語で、国民はたいへん陽気で楽天的です。お祭り騒ぎが大好きな気質なので、カーニバルやサッカー大会になると、国中が熱狂的に盛り上がり、仕事が手につかないほどです。貧しい方々もたくさんいますが、自殺する人はほとんどいません。しかし反面、ブラジル人は時間や約束を守ることにはルーズな面があり、几帳面な日本人にとっては忍耐力が必要です。日本人はブラジルにおいては少数民族ですが、ブラジル人から信頼され、とても尊敬されています。宗教に関しては、ブラジルでは国民の80%がカトリック信者、プロテスタントは人口の17%と言われています。日系人に限って言えば、1%くらいの信者の数です。日本人1世の場合は、日本の伝統的な宗教である仏教、新興宗教の生長の家、天理教、創価学会などの日本の宗教に入っている方が多いです。生活の苦しみ、人生の孤独感、病気のいやし、死後の不安などが、神を求める動機になっています。また、教会に直接導かれるきっかけとしては、クリスチャンの2、3世の子どもたちが親に勧めたり、友だちに誘われたり、信仰書物を読んだり、家庭集会に招かれたりして教会につながるケースが多いです。 私たちの使命は、ブラジル日系人を対象にした開拓伝道です。ブラジルには1908年に日本移民が始まり、戦前戦後合わせて26万人が移住しました。今では移民の子孫を含めて、日系人は約150万人になっています。私たちは、日系教会のない町でゼロから伝道して教会を建て上げています。開拓伝道に当たって必ず主の励ましのみことばを確認します。「恐れないで、語り続けなさい。・・・この町には私の民がたくさんいるから」(使 18:9~10)。伝道は神がすでに備えている民を探すことだと思わされました。 まず最初に、町に住む日系人を探し歩いて、個別にトラクトを配布することから始めます。見つけた1軒1軒の日系人の情報をノートに記します。次に市役所から買って来た大きな市街地図を壁に張り、ノートを見ながら日系人の住所の辺りに、まち針を立てていきます。トラクト配布は、市街地の道路を一本残さず歩いて行うので、時間も労力もかかりますが、町の日系人と顔と顔を合わせた生きた交流が生まれるので、伝道の必須条件だと思っています。町全域のトラクト配布は、大体2年間で終わり、壁の地図にはまち針が2千本以上も立ち並び、どこに日系人が住んでいるか一目瞭然です。個別に集めた日系人情報は、大学ノート2冊分になりました。このような地味な作業を基にして日本語学校、幼稚園、スポーツ会、婦人コーラス会、映画会、伝道集会、家庭集会の呼びかけをすると、多くの方々が集まってきました。やがて子どもも大人も信仰に導かれて洗礼を受ける方々が、毎年起こされました。私が関係するオザスコ教会の今の必要ですが、日曜学校と青年会が、もっと盛んになるように計画したいと思っています。今、そのリーダーの要請が大きな課題です。また私は、10年で50人の会員となり、土地会堂も取得して自立教会になるように目標を設定しています。教会が自立したら後任の牧師を招聘して、私たちは別の町で新しく開拓を始めます。 ブラジル宣教33年間、開拓伝道はもちろん苦労も多いですが、それをはるかに超える恵みと喜びは大きいです。これからもまだ見ぬ新たな土地で、主のみわざを見させていただきたいと願っています。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」というご命令に従って、世界宣教のために日本から献身者が起こされるように祈っていただきたいと思います。
| 祈りの課題 | 1. 日系人伝道の働き人が不足しているので、新しい宣教師が派遣されるように。 2. オザスコ教会とサンジョゼー教会の求道者が救われるように。 3. ブラジルの日系人信者の証し集の本と日系教会紹介誌が伝道に用いられるように。 4. 超教派伝道協力機関『日系キリスト教連盟』の働きが円滑に進むように。
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