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マタイの福音書の恵み ⑥
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キリストと律法Ⅰ② |
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オンヌリ教会主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
完璧な神のみことば 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(マタ 5:17)には、いくつかの意味があります。 一つめに、旧約聖書の律法や預言者の書は完全であることを意味します。つまり、神のみことばは完璧なのです。二つめに、旧約聖書のみことばとイエスの御心は一致することを意味します。今の恵みの時代に住んでいる私たちには、もはや旧約時代の律法は必要ないと言う人もいます。しかし、そうではありません。旧約聖書に記録されたすべての律法は一点一画まで意味があります。それが恵みと合わさり、より完璧に神の御心を現しているのです。三つめに、イエスのみことばと行いは旧約聖書のみことばを成就させるということを意味します。パウロも、同じことを語っています。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(ロマ 10:4)。 聖書に記録されたすべてのみことばにおいて、イエス・キリストが見えないなら、ただの社会改革の理論にすぎません。しかし、イエス・キリストは神の義を成就するために律法を終わらせたのです。
律法と預言者 17節の「律法」と「預言者」について考えてみましょう。律法と預言者は旧約聖書全体を意味しています。「律法」には三種類あります。十戒のような道徳律法、裁判で使用した定めや民法、宮で使用した祭儀律法です。神が定められた律法の中に、神の義が現れています。「預言者」ということばは、預言者たちの書を意味します。彼らは律法を教え、その律法を民に適用することに関心を持つ人々でした。彼らは律法にしたがって生きない神の民に「悔い改めて、神のみことばに立ち返れ」と叫んだのです。つまり、神の民が律法にしたがって正しく生きるように示すのが彼らの目的でした。そのためのみことばが、預言書です。 律法は神によって立てられ、預言者たちによって確認され、イエスによって完成されました。それは、すべての律法と預言者がイエス・キリストを預言しているためです。イエス・キリストは十字架につけられて死に、復活し、律法を完成されたメシヤであるというのが旧約聖書のメッセージの焦点です。イエスは完成された義を今日の私たちにゆだねられ、「あなたの努力と行いではなく、わたしを信じることで義とされた、その義を持って世に出て、正しく生きなさい」と言われるのです。信仰によって義とされた義人としての生き方はことばや行動、思想において正しくあるべきであり、私たちの人生の全領域に現れなくてはなりません。 イエスが律法を完成するために来られたというみことばは、三つの法においての完成を意味します。一つめとして、道徳律法を完成されました。つまり、十戒の、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならないという戒めを「互いに愛し合いなさい」というみことばで完成されたのです。二つめとして、裁判法を完成されました。旧約時代の律法は、彼らの実生活に必要なすべての法を文字にすることで、裁判の基準を整えました。しかし、イエスは文字通りの適用よりも、本質的な裁判の基準を立てられました。三つめとして、祭儀律法を完成されました。旧約時代の人々は彼らの罪のために、一年に一度、羊と雌の子牛をいけにえとしてささげましたが、イエスはたった一度ご自分の血をささげて、とこしえのいけにえを完成させたとヘブル人への手紙の著者は言っています。祭儀律法を記録したレビ記を、新約聖書のヘブル人への手紙と結びつけて、旧約を完成されたイエスの姿を見ると、その中にはどれほど大きな福音と恵みのメッセージが生きているのか、驚くばかりです。イエスは私たちの罪のために祭儀律法を完成させてくださったのです。旧約聖書の創世記からマラキ書までの主題はキリストです。キリストがいないなら、モーセや出エジプト、十戒や幕屋も理解できず、すべての預言は意味のないものとなります。
すべてが成就されます 「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」(マタ 5:18)。 17節と18節の間に、ギリシャ語では「カル」という単語があります。これは18節のみことばのために、17節が記録されたというものです。出だしの「まことに、あなたがたに告げます」は、強く確実な意図を表すときにイエスが使われる表現です。「天地が滅びうせない限り」とは、世の歴史が終わるまでという意味です。服装、ヘアスタイル、食べ物、家の形は時代によって変わっても、みことばは変わりません。 「一点一画」というみことばは、ヘブル語で使われる小さな点や小さな画を意味します。これは、神の律法は細い部分や項目に至るまで完全無欠で、その中に含まれる意味まで完璧に成就され答えられるという意味です。これが17節を語られた理由です。これは、旧約聖書のキリストについてのみことばの最も細い部分に至るまで、完璧に完成されるということです。 今日の時代の危機は、聖書解釈に対して自由な見解を持っていることです。時には、自由が度を越え、聖書を批判するだけでなく聖書を否定します。また、古代イスラエルの歴史書に過ぎないこの本が、私と何の関係があるのかと言う人もいます。歴史的にも、聖書の権威が落ちた時、道徳性が堕落し、罪が蔓延し、第一次世界大戦、第二次世界大戦のような戦争が起こりました。ですから、私たちが聖書を批判するのではなく、聖書が私たちを批判するようにするべきであり、私たちが聖書を自由に解釈するのではなく、聖書が私たちを自由にしなくてはなりません。聖書は一点一画も間違いのない完全な神のみことばです。この聖書が今日の歴史を導き、また完成させるのです。
残るのはみことばのみ 神秘も体験も良いものです。しかし、それらはすべて過ぎ去ります。残るのはみことばだけです。私たちが神の奇蹟を体験するときもみことばが重要であり、奇蹟がないときもみことばは大切です。 私たちの信仰の基礎が、とこしえに変わらない神のみことばの中にいつもあるように願います。聖書を読むことを怠らないでください。聖書は全体的にも読み、部分的にも読んでください。この聖書の中にイエス・キリストを見出し、イエス・キリストの義を見出してください。律法の要求、つまり神の要求はとこしえだということを忘れないでください。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩 119:103)が、私たちの告白になりますように。特に、理性と常識と合理性と堕落が支配するこの時代に生きている私たちは、みことばを守り、弁護し、保護すべき責任があります。「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい」(Ⅱテモ 2:15)というみことばに従うとき、まことの義の人生が私たちの人生の中になされることでしょう。
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