村井優人・春美 ● グレーストロント日本語教会
村井優人と妻の春美は、1981年からアメリカ東部の神学校での留学生生活を開始しました。当時、3歳の長男と1歳の長女との4人家族は、キャンパスに日本人家族がいない環境でしたので、最初から言葉と文化の違いとの戦いでした。アメリカ1ドル280円の時代でしたので、経済的な戦いも加わりました。学びの目的は、帰国後、日本での出身神学校で教鞭を取ることでした。この学びと同時に、ボストン・パークストリート教会での日本人クリスチャン・フェローシップも、ほかの2人の牧師先生とともに17年ぶりに再開することができました。これが、私の召命を海外宣教に変えるきっかけとなりました。ボストンは、ウエストコーストやニューヨークとは違い、北米では日本から最も遠く、日本人も少ない地域です。ですから、ここでの主にある交わりは同じ言葉と文化を通してですので楽しいものでした。ここでご主人がアメリカ人である一人の姉妹が救われました。これが、海外で孤立無援でがんばっている日本人の方々に主にあって奉仕しようと思わせた出来事でした。どんなに英語が上達した方でも、同じ日本語で伝道されたほうが、すんなり、すっきり行くのです。 私たちは1983年、ボストンからトロントに移住し、ここで子ども3人が新たに与えられました。全部で5人、上は31歳から下は19歳までです。1986年から1992年まで7年間現地日系教会の日本語部で奉仕をしました。海外では家族がしっかり向き合わないと、家庭崩壊になりかねません。この時期、そのような問題を抱えて精神的にもまいっていた方々のお世話をよくしました。そのような方々が主イエスによって生まれ変わり、勇気を持って、家族(特に配偶者)を愛し、生活し始めるのをこの目で見させていただくのは、牧師とその妻の特権です。 長男が9歳の時のことです。この時期は、私の家族も慣れない言葉と文化、経済上の戦いに疲れ果てていました。長男が高熱の末、意識不明となり、脳波の乱れとともに全身痙攣を起こし、もうだめかという事態が生じました。私は、手足がゆでエビのようになっている長男が無意識の中「バカ、バカ」とうわごとを繰り返す姿に、自分のスパルタ的教育と愛情は押しつけでしかなかったことを思い知らされました。私はさびしく横たわっている長男の足を何度もさすっては「ごめんね」を繰り返しました。医者は「万一助かっても、一生障がいが残るでしょう」と言い渡しました。その晩遅く、自宅に戻る高速道路でハンドルを握ったまま、「神さま、私は親だから子どもの命を自分勝手に動かしてもいいと思っていました。愛情とは言え、それを勝手に子どもに押しつけてきて、子どもの気持ちは全くお構いなしでした。どうか、子どもの命だけは助けてください。どんな障がいが残ったとしても、一生子どもの面倒を見させていただきたいのです」と悔い改め、主にお任せしました。そして2日後、息子ははっきり焦点のあった目を家内に見せてくれたのです。「神様っていいね」というのが、意識が回復した長男の最初の言葉でした。主は私を赦してくださり、私の悔い改めを聞き届けてくださったのです。そして、私は心から主を恐れ、「主は生きておられる」と実感しました。さらに、子どもたちの本当の親は、天の父なる神様であり、主人は主なのであって、私は子どもたちの管理者なのだ、と心底わかりました。その後、長男は障がいが残ることもなく、結婚して幸せに暮らしています。 1993年以来、家内とトロントでの開拓伝道を開始しました。トロントの山の手・中心街にあるとてもすてきな会堂です。教会名はグレーストロント日本語教会です。1996年から同教会の正式な牧師となりました。現在は、ドイツ人教会堂を借りて礼拝を守っていますが、いずれ自分たちの教会堂を建てることを願っています。教会員は下は2歳の赤ん坊から、上は70歳の御年配の方々まで3世代のアットホームな教会、まるで神の家族です。国際結婚の方々に仕える教会です。海外で孤立無援になっている日本人の支えになることができるようにと願っています。将来は幼稚園を設立し、幼稚園を媒体に伝道したいというビジョンもあり、幼児教育資格取得のため私は2年間のフルタイムの大学生になりました。今後の2年間が私にとって試練ですので、創世記13章10から18節にあるアブラムへの祝福がこの者と当教会にも適用されるよう、また当教会の一人一人が牧師を助ける中で主からよき信仰の訓練を受け、成長することができますようにお祈りください。
| 祈りの課題 | 1. 協力者が与えられ、教会形成が確立されますように。 2. 幼児教育資格取得の学びのためと幼稚園設立のビジョンのため。
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