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マタイの福音書の恵み ④
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地の塩、世の光 ④ |
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オンヌリ教会主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
イエスは、クリスチャンを「世界の光」と呼ばれました。その光には五つの意味が考えられ、前回そのうちの三つを説明しました。一つめの意味は、この世の本質についてです。この世は暗やみであり、絶望的であり、死の世であるため、光が必要であると言われたのです。二つめの意味は、クリスチャンはどこで生きる人々であるかという、いるべき場所についてです。クリスチャンはこの世の外で、この世から逃避して生きる人々ではないということです。三つめの意味は、光の役割についてです。光固有の役割として、暗やみをさらけ出すことがあります。イエスが私たちの人生に入ってこられると、それまでの人生がどれほど絶望的で、むなしさと死の中にあったかを悟るようになるのです。では、光の役割について引き続き見ていきましょう。
燭台の上のあかりは、世を照らします 四つめの意味は、5章15節にあります。「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします」(マタ 5:15)。 山の上にある町が隠れることができないように、キリストとクリスチャンたちの前では、もう暗やみは隠れることができなくなりました。それだけでなく、あかりをつけて枡の下に隠しておく人がいないように、光であるクリスチャンは家庭や職場や社会で光の役割をしなくてはならないとイエスは言われます。 クリスチャンはまず、人生において、暗い所や隠れている部分がなくてはなりません。すべての部分がさらけ出され、公正でなければ、光になることはできません。光というと、ろうそくや電光を考えるかもしれません。あかりには、芯と油が必要です。つまり、油を電源、芯を電球と考えみると、電球がいくら良いものであっても、電源につながっていなければ光を発することはできないのです。また、いくら電源につながっていたとしても、電球が割れていたり、その中の部品が切れていれば、光を発することはできません。クリスチャンが光を発するためには、私たちの電源であるイエス・キリストにつながっていなくてはなりません。光の源であるイエスが私たちの中に光を与えてくださらなくては、私たちは光を発することができないのです。 光を発することができないときには、二つのことを点検してください。一つめは、光の源である神としっかりとつながっているかどうかです。もしそうでないなら、私たちの良い行いがいくらすばらしくても、善行や道徳的な生活がいくらすばらしくても、光になることはできません。二つめは、イエスとつながってはいても、部品が切れたり、もしくは燃えてしまっては、光を発することはできません。客観的に見て、イエスをよく信じ、よく働いても実がないのは、その人の電球が割れているからです。その人の道徳的な品性が揺れているからです。品性が治らなければ、光を発することはできません。 世の塩ということばが、クリスチャンの世での社会参加を意味するなら、世の光ということはクリスチャンの福音宣教の役割を意味します。光が強く家全体を照らし、救いの祝福を受けることです。家庭や職場、教会で、皆さんを通して光が照らされていますか。
天におられる父に栄光を 五つめの意味は、世の光になった結果です。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ 5:16)。 クリスチャンの究極的な人生の目標は、神に栄光をささげ、神を永遠に楽しませることです。私たちが世でキリストの光として生きるとき、神に栄光が帰されるのです。世の人たちが私たちの良い行いを見て、神が存在し、イエスが真理であると知るようになるのです。良い行いとは、光の生活です。 エペソ人への手紙5章9節を見ると「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」とあります。ローマ人への手紙13章13~14節では「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」とあります。 私たちはこれまで、マタイの福音書5章13~16節を勉強してきました。ここで結論をまとめてみましょう。 一つめの結論は、塩や光がその役割をするためには、自分自身を消耗して燃やさなくてはならないことです。これは利己的で狂的な信仰生活とは違います。自己犠牲、献身、自己否定がなくては、まことのクリスチャンの生き方はできません。しかし、多くの人々は手放すために信じるのではなく、益を得るために信じます。ですから、何かを得たようであってもむなしく、結果的にすべてを失ってしまうのです。 二つめの結論は、クリスチャンの影響力は、外的な力や奇蹟にあるのではなく、内的な品性によって決定されるということです。たとえば、足のなえた人を起こし、ガン患者がいやされた教会には人々が大勢集まってくるでしょう。しかし、それによって世が変わるのではありません。世の暗やみはクリスチャンが内的な品性をもって存在するとき、明るくなるのです。
葛藤の中の恵み 私はこの山上の説教を準備しながら、多くの苦しみを味わいました。このみことばが私に適用されたため、大きなチャレンジと葛藤を感じたのです。なぜなら、私自身がこのように生きているわけではないからです。しかし、このような葛藤の中にも恵みがあり、クリスチャンの人生の定義が新しくなりました。それは一つめに、まことの祝福が何であるかを見るようになりました。詩篇1篇には、幸いな人についてのみことばがあります。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」(詩1:1~2)。私たちが山上の説教を聖日礼拝で一度聞いて終わるなら、悩む必要はありません。しかし、それを自分の人格に適用しようとするとき、激しい苦痛と悩みを伴うのです。 二つめに、このみことばを考えながら、世を変える唯一の方法が私たちの内面の態度であることをもう一度確認することができます。主は、何をどれだけしたかを尋ねられません。どのような心をもって献金をささげ、どのような心をもって奉仕したかを、主はよく知っておられます。 三つめに、神に栄光をささげることができる確実な方法は、私たちがこのような品性を持って生き、光と塩の役割をすることです。ヨハネの福音書15章8節にも「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」とあります。 最後に、このように生きられたイエス・キリストを見上げてください。私たちはこのようにできないかもしれませんが、私たちの中におられる主はそのようにできる方です。主に拠り頼んでください。ペテロが水の上を歩くことはできませんが、主を見上げたときに水の上を歩くことができたように、私たちにも主が示された基準に従って生きることができるのです。
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