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聖徒の敬虔訓練⑧
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愛と敬虔訓練 |
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ホン・インジョン ● 長老会神学大学 実践神学教授
留学中、私は「教会成長」という講義を受けました。教授が神は各人に賜物を与えられましたと講義されながら、前列に座っていた私に「あなたが神から与えられている賜物は何ですか」と聞かれました。私は突然の質問にとまどいながら「愛ではないかと思いますが・・・」と答えました。 私はその答えに恥ずかしくなり、学期期間中、その教授の顔をまともに見ることすらできませんでした。なぜなら、愛の賜物はマザー・テレサのように特別な人にだけ与えられていると思っていたからです。後になってわかってきたことは、愛というのは、特別な賜物をいただいた特別な人にだけ与えられるものではないということです。 愛の御父なる神(Ⅰヨハ 4:8, 16)、愛の御子なる神(ロマ 8:35)、愛の聖霊なる神(ロマ 15:30)は、愛の三位一体です。神が「愛せよ」と命じられる理由は、愛するように私たちを創造されたからです。ですから、聖書は「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(Ⅰヨハ 4:19)と教えているのです。
聖書の中の愛の話 聖書は、愛の話で満ちています。人々に対する神の壮大な愛とイエスの愛はもちろんのこと、親の愛、異性間の愛、友人間の愛、美しい愛、不自由をもたらす愛、火のような愛、おぼろげな愛など、多くの愛の話があります。それらは、大きくゆがめられた愛とまことの愛とに分けられます。
ゆがめられた愛 イサクは双子のうち、長男エサウを溺愛し、リベカはヤコブを溺愛しました。聖書には、ヤコブは老年に与えられたヨセフをほかの子どもたちよりも愛し、彼に「そでつきの長服」を着せました(創 37:3)。親が子どもに偏った愛情を注げば、子どもたちの間に葛藤を引き起こします。 サムソンはデリラを愛し(士 16:4)、彼女にそそのかされ、力の秘密をもらしてしまったので、大きなはずかしめを受けました。アムノンは、腹違いの兄弟アブシャロムの妹であるタマルを好きになり、悪巧みを企て、タマルをはずかしめ、その後、彼女を遠ざけました。このため、後に兄弟間の大きな争いが生まれました(Ⅱサム 13:1~19)。 聖書はゆがんだ愛について警告しています。世をも、世にあるものをも愛してはならないこと、そして世にあるすべてのものは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢(Ⅰヨハ 2:15~17)であると語っています。また、世の終わりに困難な時代が訪れ、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、快楽を愛するようになる(Ⅱテモ 3:1~4)とあります。ゆがんだ愛は、愛の対象である人を性的な対象として見て、さげすみます。また金銭を、愛の対象である人間よりも大切にしたり、快楽を神への愛よりも重要に考える価値観のゆがみをもたらします。人類の終末は、愛のゆがみによる心の腐敗から起こるのです。
まことの愛 放蕩息子のたとえでは、家を出た息子を忍耐深く待つ父の愛をよく学ぶことができます。まだ家までは遠かったのに、父は子を見て、かわいそうに思った(ルカ 15:20)ということは、それまで父は家の前で、息子を待つ日々を過ごしてきたということです。長い間、神は私たちを耐え忍ばれ、待ってくださいました。「・・・かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(Ⅱペテ 3:9)。父なる神の愛は、悔い改めを期待しつつ、長い間耐え忍ばれることなのです。 イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハ 15:13~14)と言われました。イエスは、友のために自分のいのちを捨てるという大きな愛を私たちに対して実践されました。 夫婦間の愛もまったく同じです。使徒パウロもエペソの聖徒たちに「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです」(エペ 5:28)と強調しています。妻に対する夫の愛はキリストが教会のためにご自身を与えたのと同じ犠牲の行いであり、妻を愛することが自分を愛することであるという意味なのです。神が最初の結婚で与えた命令である「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創 2:24)というみことばのように、まことの夫婦は一つなので、妻への愛、夫への愛は、自分を愛することと同じなのです。 子どもへの親の愛と、私たちの父なる神の愛を別々に考えることはできません。イエスは、「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです」(マタ 7:11)と言われました。すなわち、悪い両親であっても子どもたちに良い物を与えようとする愛の動機を持っているということです。ですから、まことの愛は、愛の章(Ⅰコリ 13章)に書かれている通り、長い忍耐の愛といのちを与える愛、犠牲を払う愛、よい動機で与える愛などを示しています。
三位一体の神の愛 神の愛は、「~にもかかわらず」の超越的な愛です。私たちが罪人であったとき、キリストは私たちのため十字架上で死なれ、それによって神は私たちに対するご自身の愛を確かにされました(ロマ 5:8)。 イエスの愛は「あきらめない」という意思による愛です。イエスは神のもとに戻る時が来ても、最後まで愛を示されました。「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」(ヨハ 13:1)。聖霊の愛は「言葉で表現できない」心に満ちあふれるような情熱的な愛です。聖霊は言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる愛を持っておられます(ロマ 8:26)。また、私たちの弱く愚かな姿を見て、悲しまれる愛なる方です(エペ 4:30)。私たちを一方的に愛される情熱の愛の聖霊であり、私たちからの反応を期待される関係の愛の聖霊でもあられます。ですから、聖霊の実は愛から始まるのです(ガラ 5:22~23)。
愛を実践する敬虔訓練 ほかの人を大切に考える愛、火のように燃え上がる愛とその愛の動機から出てくる善なる行い、三位一体の愛の神が私たちに求める愛は、二つのことに要約できます。一つは、神への愛であり、もう一つは隣人への愛です。律法のうち、最も重要な戒めは何かと聞いた人にイエスは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタ 22:37~40)と答えられました。そして、教会の共同体には「互いに愛し合う」という新しい戒めを与えられました。イエスは「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハ 13:34~35)と言われました。では、神を愛すること、隣人を愛すること、互いに愛し合うことを、どのように実践すべきでしょうか。
礼拝を通して神を愛する 詩篇の著者は、「・・・神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」(詩 51:16~17)と告白しています。日常において規則的に神の御前に出ること、神に最良のものと礼拝をささげること、すなわち礼拝が神への愛の始まりです。なぜなら、神が望まれるものは砕かれた悔いた霊と心だからです。神の御前に出て、悔い改めの心を開く礼拝が、神の喜ばれるささげものであり、私たちが神にささげる愛の表現です。したがって、神への愛を実践する第一の段階は、ありのままの姿で、規則的に神の御前に出て、礼拝をささげることです。
日常生活で人を顧みる愛 イエスは義人たちに「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです」(マタ 25:35~36)と言われました。そんなことをしたことはないとの義人たちに対し、イエスは兄弟のうち、最も小さい者のひとりに与えたのは、神への愛であると言われました。このように人を顧みることは、経済的な支援、励ましや見舞いのメールを送ること、温かい微笑み、握手、希望あふれる会話などが含まれます。神の愛は普遍的です。その愛の領域と助けの手を広げていくことが、隣人愛の始まりです。
互いに愛し合うこと 聖書は、愛された人が人を愛せると語っています。私たちへの神の愛は一方的に始められたものですが(ロマ 5:8)、神は私たちの反応を期待しておられます。イエスの弟子である私たちが新しい戒めである「互いに愛し合いなさい」を実践するために、愛し愛される成熟した共同体にならなければなりません。愛する人は「相手に知られないように与える愛」の喜びを持っていなければならず、愛される人は感謝して、「その愛の借りをほかの誰かとまた分かち合う愛」の燃える情熱を持たなければなりません。聖徒は「主イエスご自身が『受けるよりも与える方が幸いである』と言われた」(使 20:35)というみことばを忘れず、互いに愛し合うことを願うべきなのです。
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