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マタイの福音書の恵み ③
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地の塩、世の光 ③ |
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オンヌリ教会主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
前回、イエスの「あなたがたは、地の塩です」というみことばを学びました。塩は防腐剤の役割と味をつける役割があります。また、塩はいつも静かに染み込みながら変化を起こす役割をします。では、イエスが世界の輝く光であると言われたことについて考えてみましょう。まず、塩と光を比較してみると、塩はひそかに静かに働く反面、光は明白に公然と誰にでも見ることができる姿で現れます。塩は中で溶けながら働きますが、光は外で力強く働きます。光の性質上、隠れることはできません。高い所に置いて、家全体が見えるように光を照らします。イエスが「あなたがたは、世界の光です」と言われた、その光には五つの意味が考えられますが、それを2回に分けて説明をしたいと思います。
この世の本質は悪である 一つめは、「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」という14節のみことばから、イエスはこの世の本質を教えておられます。つまり、この世は暗やみであり、絶望的であり、死の世であるため、光が必要であると言われたのです。実際にこの世を見てみると、空中の権威を持つサタンが世の王たちを操り、無神論的な物質主義者や科学主義者を支配しています。堕落したこの世はもう最初のエデンの園ではないということを忘れてはなりません。光が必要な所、塩が必要な所が、私たちが生きている現実なのです。私たちクリスチャンたちは、思い違いをしてはなりません。この世について正しく理解し、この世を救うべきです。 この世だけでなく、この世に生きている人間についても同じです。人間は立派な存在ではありません。自分自身を振り返ってみても、罪にまみれた存在であることがわかります。悪いこと、欲や権力、誤った思考で満ちていることを発見します。
この世で光として存在する 二つめは、クリスチャンはどこで生きる人たちかという、いるべき場所に関するメッセージです。クリスチャンはこの世から逃避して生きる人たちではないということです。クリスチャンは腐敗し荒廃した世の塩であるように、暗やみの世の中で、暗やみを追い出しながら生きる人たちです。あるクリスチャンは、罪深い世を避け、現実を忘れ、山にこもってイエスの再臨とさばきだけを待ちながら生きます。イエスは、私たちの生きていくべき場所を明らかにしてくださいました。使徒パウロも、光について「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」(エペ5:8)、「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか」(ロマ 13:12)と言いました。
暗やみをさらけ出す役割 三つめの意味は、光の役割についてです。光特有の役割として、暗やみをさらけ出すことがあります。光がなければ、暗やみが暗やみであることがわかりません。つまり、イエス・キリストが私たちの人生に入ってこられるまでは、私たちが暗やみの中で生きていることを知らずにいましたが、イエスが私たちの人生に入ってこられると、それまでの人生がどれほど絶望的で、むなしさと死の中にあったか、間違った人生を歩んでいたことを悟ります。これがまさに光の役割です。イエスは世の光として来られ、すべての暗やみをさらけ出し、追い出しました。サタンの正体を明らかにしたのです。 また、イエスは「わたしが世にいる間、わたしは世の光です」(ヨハ 9:5)と言われ、マタイの福音書ではイエスが世に来られたことを、「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った」(マタ 4:16)と言いました。では、この光は一体どこから来たのでしょうか。ヨハネの福音書1章4節では、正確かつ明瞭に答えています。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(ヨハ 1:4)。イエスの光は、イエスのいのちの中から来ました。いのちがあるところに光があり、いのちがあるところに復活があります。イエスは「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言われましたが、これが光です。つまり、イエスは死と暗やみを裂き、復活と光をもって現れました。イエスは「わたしを信じる者はもう暗やみの中を歩むことがない」と言われ、また「あなたがたは、世界の光です」と言われました。ここで私たちは、クリスチャンのまことの役割を知ることができます。クリスチャンは暗やみの中にいる人ではなく、暗やみをさらけ出す人なのです。暗やみは光のために、衝撃を受けます。 パリサイ人と律法学者たちは、イエスの出現によって大きな衝撃を受けました。彼らは彼らなりの信仰をもって立派に生きてきましたが、イエスが登場し、違うみことばを語り、違う行動をされ、違う生き方をされるのを見ました。彼らは動揺し、暗やみがさらけ出されるのに耐えることができず、イエスを憎みました。これが光の役割です。神が存在し、イエスがこの地に来られても、人間は光を自ら遮断しながら生きていました。 多くの妻たちの切なる願いは、夫がイエスを信じるようになることです。そして、夫が妻の祈りどおりに悔い改め、イエスを信じるようになります。しかし問題は、あまりにも熱心に信じるようになったことです。妻は動揺して、そこまで信じなくてもいいと言い、もう少し控えめに信じるように願います。一日中イエスのことを考え、毎日教会に行ってどうするのかと言います。しかし、本物はこの夫なのです。また、親は子どもたちがイエスを信じるようなることを祈ります。しかし、子どもたちがまことの救いを受け、聖霊に満たされて献身すると、むしろ親が動揺するのです。 クリスチャンは、暗やみの世で一つの人生の基準を提示します。クリスチャンの人生の優先順位、たとえば時間の使い方、お金の使い方、神と人への仕え方、子どもの教育観や職業観が違ってきます。特に、子どもの教育においての考えが変わります。以前は良い大学を出て、条件の良い結婚相手に出会うことが親の願いでしたが、それだけが人生のすべてではないということを知り、子どもたちに非人格的な態度で接しなくなります。世俗的な競争社会の中に子どもたちを放任しない自分自身を発見するのです。 職業観においても同じです。過去には手段や方法を選ばずにお金を稼ぎ、昇進し、権力を握るというものでしたが、イエスに出会い、光を見つけた後には変わるのです。衣食住に満足し、永遠の価値と永遠なことに関心を持ち、時間とお金を使うようになります。 皆さんはこの世の不正、腐敗、暗やみの光ですか。それとも火の消えたあかりにすぎませんか。
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