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マタイの福音書の恵み ②
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地の塩、世の光 ② |
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オンヌリ教会主任牧師 ● ハ・ヨンジョ
「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」(マタ 5:13~14)。
この世は腐敗するしかないという事実 このみことばは、この世の本質つまり塩がなくては腐敗するしかないということを示しています。それはまるで病原菌のせいで腐敗し、朽ちていく肉と同じです。悪質で、罪によって堕落し、不浄であるしかないこの世の性質を、このみことばは示しています。ですから私たちは決して人間やこの世を楽観的に見てはならないのです。 歴史を振り返ると、人間は一時「人間を教育すれば、人間は変わる。制度を変え、環境を変えれば、この世は明るくなる」と考えていました。神は必要ではなく、人間自ら努力するならば、楽園を作ることができるという幻想にとらわれていました。しかし、歴史は無慈悲にも第一次世界大戦、第二次世界大戦を生みました。それは人間の行いの結果であり、また科学物質文明の追及の結果でした。罪人である人間が作りだす歴史は、罪人の歴史に過ぎません。何をもっても人間は変わることはできません。根本的に神の前で新しく生まれなくてはならないのです。 この世が腐敗すると、その中で生きている人はどんなに善い人でも、悪臭と汚物の中で生きるしかありません。ですから、私たちには、この世に出て、腐敗していく世が腐らないようにする責任があります。
クリスチャンには独特な役割が与えられた またこのみことばは、クリスチャンには独特な役割と姿が与えられていることを示しています。そして、この世において防腐剤の役割をすっかり忘れてしまったり、味気がなくなったにせの塩になってはならないという警告でもあります。たいてい、私たちはクリスチャンとして、この世の人々とは違わなくてはならないことに、大きな負担と恐れを感じています。腐敗していく世に、肯定も否定もできないまま、ある程度同化しながら生きていこうとする誘惑に陥ってはいないでしょうか。あるいは、世では世の法に従って、教会では信仰の法に従って生きていこうとする二元論を持っていないでしょうか。このような考えのために、どれだけ教会が多くても、どれだけイエスを信じている人が多くても、世は微動もしないのです。 ある人は、月曜日にはアダムのように神を裏切り、火曜日にはカインのように兄弟を殺し、水曜日にはダビデのように姦淫し、木曜日にはアカンのように泥棒し、金曜日にはアナニヤとサッピラのように神のものを盗み、土曜日にはイスカリオテのユダのように主を裏切り、聖日には「神様、ごめんなさい」と言うといいます。
私たちが果たすべき三つの役割 では、私たちがこの世に出て、塩として果たすべき役割をもう一度整理してみましょう。 一つめは、腐るのを防ぐ役割です。これは汚し、腐敗させる病原菌を殺すことを意味します。つまり、サタンの働きを防ぐことであり、この世に蔓延している罪の繁殖を防ぐことです。クリスチャンは罪を指摘し、除去する方法を知らなくてはなりません。罪に対して無関心であったり、沈黙してはなりません。不正や腐敗、誤りを正さなくてはなりません。 二つめは、味を出す役割です。塩が外部的には防腐剤の役割をすると同時に、内部的には料理に味を加える役割をします。ですから、塩であるクリスチャンとは、世にまことの人生の意味と生きがいを与える者です。世は快楽を追及することで味を加えますが、クリスチャンは人生の意味と生きがいを追及することで味を加えます。クリスチャンがいる場所には正しい目的や方法が与えられます。そして、すべての人が喜び、平安を感じるようになるのです。 三つめは、和解させる役割です。イエスは「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい」(マコ 9:50)と言われました。塩をまんべんなく振って味つけするように、和解させる働きが私たちにはあるのです。腐敗防止と味を加える役割だけでなく、味の回復(意味の回復)を通して、和解させる役割を作り出すのです。 90%献身した100人より、100%献身した10人が世界を変えるという言葉があります。教会に人がいないので、働きができないのではありません。献身した人が一人もいないので、イエスは涙を流されるのです。その一人がいないため、この世は明るくもならず、その腐敗を防ぐことができないのです。「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」(コロ 4:6)というみことばの意味がここにあるのです。 教会は、すべてのクリスチャンが塩のように生きることができるよう、みことばをもって養育し新しくする役割をしなくてはなりません。これは教会が組織的に世の政治や経済、社会、文化に参加すべきだという意味ではありません。政治をする人は政界で、経済をする人は経済界で、文化に参加する人は文化界の中で、それぞれのクリスチャンが世に出て行き、塩の役割を果たさなければなりません。塩は少量でも、大きなかたまりに決定的な影響力を及ぼします。その方法は浸透する方法であり、圧力や批判の方法ではありません。イエスが私たちを世に遣わしたのは、さばかせるためではありません。私たちは世のために涙を流し、祈りながら、具体的に罪と戦い、対決しなくてはならないのです。
静かな革命 クリスチャンは高圧線の電気のようです。見た目はなんでもありませんが、触れると数万ボルトの電流が流れるのです。見た目はほかの人と同じかもしれませんが、その人と接触すると恐ろしいほどの愛に感電します。それがクリスチャンです。このような少数のクリスチャンたちが初代教会の時代にローマをひっくり返したということを覚えていてください。彼らは主のみことばどおり、クリスチャンの品性をもって生きていただけです。 「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです」(マタ 5:13)。これは警告です。今日、多くのクリスチャンたちが世であざけられ、踏みつけられています。それは私たちが塩の役割を果たせなかったからかもしれません。正しく判断してください。社会で妥協しないでください。神の人として生きてください。そうすれば、世は変わります。
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