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聖徒の敬虔訓練⑤
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劣等感と敬虔訓練 |
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ホン・インジョン ● 長老会神学大学 実践神学教授
ある有名な医者は、世界の人口の95%が劣等感によって苦しみ、そのために幸せと成功に深刻な障害があると主張します。その反面、劣等感は欠乏に対する認識に根をはっているため、それを克服するための「創造の原動力」になります。 心理学者アドラーは、劣等感とそれを克服するための優越感の追及は、人生の重要な動機であると強調します。このように、劣等感には肯定的な側面と否定的な側面があります。しかし、問題は劣等感の否定的な影響力から完全に自由な人はいないという点です。 人間が罪人であることを知りイエスを受け入れることは、自ら自分を救うことができないという欠乏(劣等感)を認めることから始まります。人間の罪は、神のようになれるというサタンのうそに惑わされた結果です。ですから、人間は堕落し、神のようになろうとする欲望と、ほかの人よりも高くなろうとする高慢のため、常に悲劇がつきまといます。しかし、人間は高くなろうとすればするほど劣等感から抜け出すことはできません。なぜならば、ほかの人と比較しなければならないからです。比較の中では決して幸せを得ることはできません。 劣等感には二通りがあります。一つは先天的なもので、もう一つは環境や状況から来る相対的なものです。絶対的なものであれ、相対的なものであれ、劣等感は比較と競争心から来ます。このような劣等感の特徴は、客観性が欠如した主観的な思考と、否定的な自己判断です。 アドラーによると、人間は劣等感を埋め合わせるためにも「攻撃と後退」という社会的兆候を現すと言います。では、劣等感はどのように克服することができるのでしょうか。
聖書の中の劣等感 サウルは、ほかの人よりも多くのものを持っていましたが、謙遜な人でした。聖書はサウルについて「キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった」(Ⅰサム 9:2)と記録しています。預言者サムエルが「全イスラエルが慕う者」であると言うと、サムエルは「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか」 (Ⅰサム 9:21)と答えます。 しかし、後にサウルが神のみことばに聞き従わないと、サムエルは「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか」(Ⅰサム 15:17)と戒めました。このサウルの姿から、時に謙遜が劣等感の偽装であることがわかります。サウルには多くの長所がありましたが、過度に謙遜で自己卑下をしました。 しかし後に王になると、神のみことばを無視する高慢な人へと変わりました。サムエルの戒めの前に、サウルは「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください」(Ⅰサム 15:24, 30)と言います。サウルは神の前で悔い改めたのではなく、言い訳だけを並べました。彼は罪を犯しても長老と民の前で自分を高めてくれるようサムエルに願いました。サウルはほかの人たちと比較しながら、自分が高められることを願ったのです。 結局は、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」(Ⅰサム 18:7)と言う女たちの歌声を聞いて、劣等感が爆発し、ダビデに向かって槍を投げつけました。サウルの劣等感が攻撃的に現れた瞬間です。 また、アドラーは身体的、心理的劣等感と同時に兄弟間の競争によって起こる劣等感についても言及しています。兄カインは弟アベルのささげ物を受け取られた神に不満を持ち、最後には弟を殺してしまいます。競争で遅れをとったと考えたカインの劣等感は、アベルに対する攻撃(殺人)として現れたのです。 似たような例が、双子として生まれたエサウとヤコブにも現れます。兄弟間の競争と両親の偏愛は、結局弟ヤコブが父イサクをだまし、兄の長子権をだまし取る結果を生みました。これによりヤコブはエサウを避け、逃亡者の人生を生きなくてはなりませんでした。
生活の中での劣等感の克服訓練 世の中には外見がよく、頭がよく、能力のある人が多くいます。そのような人々と比較して生きてしまうならば、日々挫折感と劣等感を感じることでしょう。では、生活の中で劣等感をどのように克服することができるでしょうか。 バプテスマのヨハネは劣等感に陥りましたが、それに打ち勝ちました。ヨハネの弟子たちは、イエスがバプテスマを授けると、人々がみなイエスのほうに行くと報告しました(ヨハ 3:26)。その言葉を聞いて、ヨハネは落胆することもできたでしょう。しかし、彼は神がそのようにされたことを信じました。そして、むしろ喜びに満たされ、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハ 3:30)と言いました。なぜ、ヨハネはこのように言うことができたでしょうか。また、私たちは何をバプテスマのヨハネから学べるでしょうか。 一つめは、自分はキリストではないという明らかな自意識です。ヨハネはイエスがキリストであることを知っており、イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」、つまり救い主であると告白しました。劣等感に勝つ方法は自分の足りない部分を知り、イエス・キリストに自分の人生を治めていただくようにすることです。ですから、使徒パウロは「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリ 4:13)と、堂々と言ったのです。 二つめは、自分の使命と賜物を知る人は劣等感から自由になります。それをバルナバとパウロの関係からも学ぶことができます。バルナバは改宗したパウロを弟子たちに紹介し(使 9:27)、パウロとともに伝道しました。その結果、パウロは伝道旅行で中心的な役割を果たし、宣教の歴史に大きな足跡を残しました。バルナバはパウロによって劣等感を感じるのに十分な条件がありました。人気も、働きの比重も、教会の影響力も徐々にパウロに移っていきました。しかし、バルナバはそれをねたまず、「励ましの人」として、自分の賜物に従ってほかの人を立て、励ましました。 三つめは、私たちのかしらであるイエスの満ち満ちた身たけまで、成長し続けることです。人間は、ほかの人と比較する習慣があります。イエスを3度否定したペテロは、復活したイエスに会ったとき「わたしを愛しますか」(ヨハ 21:15~17)という質問を3度も受け、苦しみながら「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。そして、すぐに使徒ヨハネを見て、好奇心と比較意識が起こり、「主よ。この人はどうですか」と聞きました。イエスは「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と簡潔に答えられました。私たちの目標は、イエスの満ち満ちた身たけにまで成長することです。「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」(エペ 4:13, 15)。 四つめは、良いものを与えてくださる神への固い信仰です。バプテスマのヨハネは、良いものはすべて神が与えてくださると信じたため、ほかの人の持っているものを欲しがりませんでした。ですから、人々がイエスのほうに行くのは当然であり、神のご計画によってなされたことであったため、喜ぶことができました。 私たちは日々、イエスに栄光を帰すことを喜ぶ訓練をすることで、ほかの人に対する嫉妬やねたみを克服することができます。「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタ 7:11)。 私たちは競争から遅れをとり、劣等感が押し寄せてくるとき、祈ることができます。劣等感を隠しながら生きることはできません。たとえそれが可能だとしても、それは苦しい人生です。ですから、私たちは劣等感を隠すよりも劣等感に勝たなくてはなりません。アドラーは「人間の最も驚くべき特性の一つは否定を肯定に変える力である」と言いました。人間には、劣等感を肯定的な次元に変える力があります。神の民ならば、劣等感を十分に克服することができます。 ゴリヤテは、外見的にダビデの相手になることさえできない巨大な存在でした。しかしダビデは勇敢に言いました。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ」(Ⅰサム17:45)。 イスラエルの民は、ゴリヤテが巨人だったので、勝つことができないと恐れたはずです。しかしダビデは、ゴリヤテの体が大きいので、自分の石がその目標物をはずすことがないように神が働かれると信じました。 このように劣等感を持った人と信仰に満ちた人には、大きな差が生まれます。私たちは万軍の主の御名によって踏み出すとき、劣等感と恐れを克服し、真の能力を発揮することができるのです。
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