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聖徒の敬虔訓練③
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うつと敬虔訓練 |
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うつと敬虔訓練
ホン・インジョン ● 長老会神学大学 実践神学教授
うつは心身を無気力にし、信仰と霊性を後退させ、自殺とも深い関係があります。憂うつは悲しく不幸な感情を表現する単語です。この世には内向的な人や外向的な人がいるように、多少憂うつな傾向を持つ人、多少楽天的な傾向を持つ人がいます。憂うつな感情が周期的に訪れたり、憂うつな状態が持続するなら、助けを必要としているサインです。もちろん憂うつな感情は、診断名としてのうつ病とは区別されますが、生活において憂うつな感情が持続するならば、放置してはいけない疾患です。 憂うつは、苦しみを表す憂と塞がるという意味を持つ鬱という漢字を合わせたものです。「憂」は大きな頭(頁)と心臓(心)を包んだ手(冖)、あちこちと行き来する足(夂)が合わさってできた漢字です。つまり心配する姿は、心臓を抱え込んだまま考えに没頭し、居ても立ってもいられない状態、心配のあまりどうしていいかわからず頭が痛い状態を言います。そして「鬱」は本来何の罪もない人を森に連れて行き、寝かせた状態で踏みつける姿の漢字であったと言います。理由もわからないまま、悔しい出来事に会い、「(息が)つまり」苦しんでいる姿を表します。では、憂うつが私たちを圧倒するとき、どのように対処するべきでしょうか。 聖書の中のうつ:死ぬことを願うエリヤ エリヤはイスラエルの民が神から遠ざかり、偶像礼拝したとき、すい星のごとく現れた預言者です。彼はカルメル山でまことの神は誰であるか、天から火を下らせ、いけにえを焼き尽くすことでその真偽を見極めようと提案します。バアルの偽預言者450人とアシェラの偽預言者400人と競い、エリヤは神の御業によって勝利をおさめます。またエリヤの祈りによって神が雨を降らしてくださり、3年6ヶ月間続いた干ばつが終わります(Ⅰ列18章)。これに力を得たエリヤは、偶像礼拝を扇動してきたアハブ王の妻イゼベルの反応を見るため、アハブ王の馬車の前を走り、イズレエルまで行きます。しかし、イゼベルは降伏して悔い改めるどころか、むしろ「明日お前を殺す」という使者をエリヤに送ります。するとエリヤは、「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った」(Ⅰ列 19:3)とあるように、ベエル•シェバに行き、若い者を残して、荒野へ一日の道のりを入って行きます。そして、えにしだの木の下で自分の死を願いながら、横になり眠ります。 人生の中ではエリヤのように勝利者になるときもあります。彼はカルメル山でイスラエルの民に向かって、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」(Ⅰ列 18:21)と大胆に叫びました。また、エリヤのように恐れを感じ、死を願うときもあります。彼は「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」(Ⅰ列 19:4)と訴えました。信仰生活には起伏があります。エリヤも信仰の頂上にとどまることができず、深い憂うつの中で死を願いました。では、エリヤの憂うつはどこから来たのでしょうか。 一つめに、身体的疲労と間違った期待感によるものです。エリヤはみことばに従い、雨が降らなくなることをアハブ王に宣言します。その後3年6ヶ月間、ききんの中で過ごし、彼はツァレファテのやもめを養い、彼女の死んだ息子を生き返らせる奇蹟を行います。神とともに歩む訓練を修了したエリヤは、カルメル山での偉大な対決を通してまことの神を国中に証明します。天から火が下り、3年6ヶ月の干ばつが終わります。エリヤはアハブ王とイゼベルが悔い改めることを期待しましたが、彼らはよりかたくなになります。エリヤは3年6ヶ月間アハブ王と戦いながら心身が疲れ果てたのです。自分の期待までも失った預言者は、命を守るために逃げ出し、たった1日で死を願ったのです。 二つめは、自分の限界、つまり劣等感によるものです。エリヤは死を願いつつ、自分が先祖たちにまさっていないという限界を吐露します。エリヤは驚くべきことを行った神のしもべですが、自分が神に用いられる道具に過ぎないことを忘れ、高慢になっていたに違いありません。 エリヤのうつは、イゼベルに脅されて逃げる途中、自分の弱さを認識することから始まります。彼は「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました」(Ⅰ列 19:10)と告白します。熱心には仕えたが、今は何のとりえもない存在であるという思いによってうつになり、死を願ったのです。 三つめは、孤独です。うつ病の特徴の一つに、自分は一人だと考えてしまう傾向があります。エリヤは「ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています」(Ⅰ列 19:10)と告白します。人間にとって一人であるという考えほど恐れを与えるものはありません。神がアダムを造られ「人が、ひとりでいるのは良くない」(創 2:18)と言われました。人間はともに生きるように造られた存在です。エリヤは一人でバアルの預言者たちと戦いながらも、味方が与えられることを期待したはずです。しかし、自分に賛同する人がいないと感じ、「私一人だけが残りました」と告白したのです。 うつ病は「憂うつな気分」、「興味や楽しさの喪失」がおもな症状です。これによって食事調節(過食や拒食)ができず、不眠や過睡眠、疲労感やエネルギー喪失、集中力低下、死に対する考えなどが現れます。これを見ると、エリヤはうつ病に発展する過程にあったと言えます。
うつを克服する敬虔訓練 聖書は「エリヤは、私たちと同じような人でしたが」(ヤコ 5:17)と教えます。つまり、エリヤが憂うつになり死んだほうがましだと考えたなら、私たちも憂うつから自由になれないことになります。では、周期的に訪れる憂うつをどのように扱うべきでしょうか。 1. 健康を維持する まず、健康を維持しなくてはなりません。えにしだの木の下で死を願いながら眠ったエリヤに、御使いがかけた言葉は、「起きて、食べなさい」(Ⅰ列 19:5)でした。彼が食べてまた横になると、御使いが彼を慰め、焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼを与えます。エリヤがまた食べて横になると、御使いがもう一度彼を起こし、食べさせます。エリヤは食べて力を得て、40日40夜、歩いて神の山ホレブに到着します(Ⅰ列 19:5~8)。神がエリヤにみことばを与える前に、まず体の回復のために食べ物を与えたのです。うつは心の病気ですが、体と分離することはできません。ですから、食べ物の適切な供給と規則的な運動はうつを克服する基本です。 2. 歪められた思考を聖書的なものにする 次に、うつ病の本質は歪められた思考に根をはっています。「私だけ残った」「人生は無意味だ」「神は私を助けることはできない」と考えてしまうと、常に否定的になります。エリヤは神の御力によって奇蹟を行いますが、たった一度の否定的な結果によって自分は死んだほうがましだと考えました。憂うつな人の歪められた認知方法の中にはトンネルビジョンと両極化思考があります。洞くつの中から外を見て目に見えるものがすべてだと考えたり、白黒論理にしたがって考えてしまうのです。 歪められた認知思考の対処方法の一つは「そうだ(yes)、でも(but)」を使用することです。人は憂うつなとき自分に対して致命的な診断をくだします。「私は情けない、どうしようもない存在」であると考えます。このような考えが浮かぶのを調整することはできませんが、その次の反応は選択することができます。「私は不十分だ」(yes)と考えるとき、「でも」(but)「私は神の子どもだ」(ヨハ 1:12)、「私はイエスの友だ」(ヨハ 15:15)、「私は神の子だ」(ロマ 8:14~15、ガラ 3:26、ガラ 4:6)と、みことばによって歪められた思考を矯正するのです。 神がホレブ山で「エリヤよ。ここで何をしているのか」と尋ねられます。エリヤは、「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」(Ⅰ列 19:14)と訴えます。すると、神がエリヤにハザエルに油を注いでアラムの王とし、エフーに油を注いでイスラエルの王とし、また彼の代わりにエリシャを預言者として立てるように命じます。そして、エリヤは一人ではなく、バアルにひざまずかない7千人がいることを知らせます。神が否定的な思考によって疲れ果てているエリヤに事実を認識できるように正確な情報を与え、使命感と同時に回復も与えられたのです。 放蕩息子は父の財産を使いきり、飢えの中で死にそうになりましたが、彼は「我に返ったとき」父のところに帰ることを考えます(ルカ 15:17~19)。放蕩息子が「でも」を通して父のところに戻ったように、憂うつな人も「でも」を通して神のもとに戻るなら、いやしを経験することができます。 3. ともにすることで克服する うつは、一人であるという寂しさの感情の状態を含みます。エリヤは自分はたった一人残り、自分ができることはないと考えます。神はエリヤに代わってエリシャに油を注ぎ、エリヤが天に昇る時までともに行動するようにされます。憂うつな人にはともにいる人が必要です。伝道者の書では「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ」(伝 4:9~10)と言います。 人は誰でも倒れることがあります。憂うつで心がこわれるときがあります。だからといって、うつ病を恐れる必要はありません。規則的な生活、「でも」で思考を変えること、人との交わり、神のかすかな声を聞きながら自分に与えられたビジョンを発見することなどを通して、むしろうつを神に近づくチャンスとしてください。
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