Field of Dreams, Field of Kingdom 神の国は近づいた
国分寺バプテスト教会 主任牧師 ● 米内宏明
神の国は近づいた 昨年、日本プロテスタント宣教150周年を迎え、その歴史と現状を学ぶにつれ、改めて「神の国のフィールド」に私は立ちたいと強く願うようになりました。しかし、主イエスが神の国は近づいたとおっしゃっているのに、なぜ私の現実からは神の国を遠く感じてしまうのだろうかと悩みました。はっきりしていることは、もし神の国が近くに感じられないとすれば、あるいは神の国のメッセージをこの世界に届けられないとすれば、それは聞こえない相手やこの世界の問題ではなく、それを語るべき自分自身の問題であることでした。 尊敬する知人の牧師が話してくれました。「かつてきれいに刈り込まれた芝生に寝そべって神学書や聖書を読んでいた自分が、その芝生を日雇いの労働で刈り込む仕事に就かなければならなくなったとき、そこから見える教会はなんと遠いことだろう。」「これまでどこに自分は立って、どんな教会を建てようとしていたのだろうか」と。どこに立ち、誰に向い、どこを目指しているのか、…この重い発言は私にとって大きなチャレンジとなりました。 神の国とは神のご支配のことだと私たちは知っています。「神の王国=神のご支配=神のご性質の表れ」ですから、どの教会にも神のご性質がありますし、教会はそれを現す存在です。しかし一方で、この神のご性質を私たちは作り出すことができません。たとえば神のご性質である愛は、私たちが作り出せるものではありません。また、神を三位一体の「交わり」で表現することがありますが、この交わりも、人が生み出せるものではありません。とすれば、神の愛と交わりの広がりであるはずの宣教そのものも、私たちが努力しさえすれば成功する、私たちが頑張りさえすれば実を結ぶ、というようなものでないことがわかります。 福音を広めるコイノニア 私たちが作り出す神の国ではなく、神の国(神の取り仕切り、ご性質)に私たちがあずかること。私たちが生み出す福音(宣教)ではなく、福音(宣教)にあずかること、と発想を変えてくれる聖書のことばがあります。パウロは「福音を広めることにあずかって来た」とピリピ教会を称しました(ピリ 1:5)。この「あずかる」とは“コイノニア”という語で、「一つのことを複数で担う」という意味がもともとあります。一つのことを複数で担う出来事のひとつとして、新約聖書に記録されている「中風の人と四人の友人」(ルカ 5:17~)の出来事を私は思い出します。福音にあずかるというここでのコイノニアの内実には、幾つかの特徴があります。まず、一人ひとりが病人のために動き出そうとしたこと。これはフットワークです。次に彼らが仲間として動いたこと、仲間としての多様な判断が役に立ったことです。戸口には大勢の人がいたために、この四人が病気の友人を主イエスの前に連れて行くことは不可能に見えました。そのとき、この四人だから生まれた判断がありました。「屋根を壊そう!」です。そして実行します。これがチームワークです。 すると、主イエスは驚くようなことをおっしゃいました。「彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました』」(20節)と。なんとイエスもこの四人の、いえ五人の仲間になってくれたのです(本当は、主イエスが彼らを仲間にしてくれたということでしょう)。なぜなら、この赦しの宣言は罪を担って十字架でいのちをかける約束(マタ8:17)に基づいている宣言ですから、この赦しの宣言は主イエスもこの四人と一緒に病人を担いでくれたことの証です。このストーリーをみて気づくことは、ひとりの痛みや悲しみを仲間が必死に背負う姿です。一人の弱さが人を、仲間を動かしました。これがネットワークの本来の姿です。その弱さから始まったネットワークが主イエスの恵みを招きました。 自分が動くことをいとわないフットワーク。また、ビジョンを共有し、仲間を助け、新しい発想が生まれるチームワーク。そして、たとい所属チームは違っても、教派、教会、立場、文化を越えて、この世界の必要に応えようとするネットワーク。そこに主イエスが加わってくださいます。すると更に自分が変えられ、次のフットワークが生み出される…。神の国のダイナミックさを感じます。私はこの神の国のコイノニアにみなさんと共にあずかりたいと願っています。ご一緒しませんか、この夢のフィールドに。
米内宏明(よない・ひろあき) 国分寺バプテスト教会 主任牧師。 学生時代、京都にて洗礼を受ける。銀行勤務を経て、東京基督神学校へ入学。開拓伝道牧師、ユース牧師として7年奉仕をした後、米国でユースミニストリー、キャンプミニストリーの研修を受ける。95年帰国後、現職。JCFN理事長、日本バプテスト教会連合理事。
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