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聖徒の敬虔訓練①
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不平と敬虔訓練 |
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不平と敬虔訓練
ホン・インジョン ● 長老会神学大学 実践神学教授
この世は公平でも公正でもありません。人はこの世に生を受けるとき、家庭環境を選択することはできません。裕福な家も貧しい家もあります。人生は公平で公正であるべきであると考えるのは間違っています。 もちろん、なぜ世の中がそうなのかと神に聞くことはできます。預言者ハバククは罪悪や倫理に逆らったこと、強姦や暴力、論争や紛争が溢れていることを見て、主よ、いつまでですか(ハバ 1:2~4)と叫びました。人生を歩みながら、公平や公正を追い求めるのは当然のことです。ですから、私たちの主観的な思考は、現実が不公平で不公正であると結論づけます。そして、そこに否定的な感情を混ぜて、不満を持ちます。 不平という言葉を辞書で引くと「気に入らないこと。心が満たされないため、気にくわないこと」「気にくわないことを表面に出すこと」「心が平安でないこと」などです。また不平には思考、感情、表現という3つの側面があります。まず、何かが間違っているという思考があり、それからその出来事に対する解釈が自身の心や身体に異変を起こし、感情的な行動をします。
聖書の中の不平 ヘブル語で、不平は「ルン」です。出エジプト記と民数記では、この単語が「つぶやいた」と訳されています。英語では、不平(complain)、不満(grumble, murmur)が使用されています。「ぶつぶつ言う、愚痴をこぼす」などの感情を表します。イスラエルの民は、エジプトを出た後、荒野の生活をしながら困難に直面するたびに、いつも恨みや不平をこぼしました。 ナオミは夫ともに飢饉を避け、モアブまで来ました。そして、そこで夫と二人の息子を亡くし、ベツレヘムに帰ってきました。その時ナオミは、「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから」(ルツ 1:20)と言いました。もともと、「ナオミ」は「快い」、「マラ」は「苦しむ」という意味があります。ナオミのマラは、イスラエルの民がエジプトから救い出されて葦の海を渡った後、水がなくなったという最初の危機に直面したときのことを連想させます。 イスラエルの民は、神が彼らをエジプトの軍隊から救い出してくださるのを実際に経験しました。神が奇蹟を起こしてくださり、葦の海を陸地を歩くように渡ることができました。ですから聖書には「イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた」(出 14:31)とあります。しかし、次のようなことが起こります。「彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた」(出 15:22~23)。もともとマラは、「苦い水、飲めない水」という意味でした。 イスラエルの民のように、飲める水を見つけることができず、「マラ」を経験したとき、私たちは指導者と神を恨み、不平の声を上げます。イスラエルの民はモーセにつぶやきました。それを聖書は神に対する不平であると言っています。「モーセはまた言った。『夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです』」(出 16:8)。 「つぶやく」というのは、露骨に不満を表すというより陰で愚痴をこぼしたり、うわさしたりすることです。しかし聖書では、不平を言うつぶやく者は神を試みる者であり、それに応じてさばかれると言っています。さらに出エジプト記で繰り返されるイスラエルの民のつぶやきや不平が記録されているのは、私たちが気をつけるためです。 使徒パウロはイスラエルの祖先が荒野で滅びたことについて、「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです」(Ⅰコリ 10:6)と言いました。また、「私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(Ⅰコリ 10:9~11)と警告しました。 不平とつぶやきは神を試みることです。聖書に、神の人が不平を言い、つぶやいているのが記録されているのは、不平を言う者たちが受けるこらしめを知らせ、警告するためです。そして、私たちは信仰の先輩が不平とつぶやきのために受けた試みやこらしめを覚え、彼らのようにならないように努力しなければなりません。
不平を克服するための敬虔訓練 どのようにすれば不平を持たず生きていくことができるでしょうか。不平の根本には不満がはびこっています。満たされない状態は人生に創造的な力を与えることもあります。しかし、不平は否定的な言葉によって表現されます。それは状況、出来事、人物への否定的な思いから生じます。不平は否定的な結果を招くだけです。その理由は言葉には生命力があるためです。ですから、聖書は「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ」(詩 37:8)と言います。不平は神に似ていくという敬虔訓練において、必ず克服すべき敵なのです。敬虔訓練とは「神に似た品性が自身の生活に満ち、その良い影響力が広がる訓練」であると定義することができます。 ① 神の力に拠り頼むこと 「モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった」(出 15:25)。木自体に不思議な力があったわけではありません。神が示されたとおりに従ったとき、変化という御業が起きたのです。ちょうど、イエス・キリストを信じることによって、罪人が義人に変えられるようにです。同じような例に、エリシャが流産の多いエリコの水を変えた出来事があります。新しい皿に盛った塩を水の源に投げ込むと、水が変わりました(Ⅱ列 2:19~22)。 神が私たちに与えようとする教訓は、不平が感謝や賛美の告白に変わるためにイエス・キリストの恵みを着なければならないということです。「マラ」の苦い水を変えられた神は、「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である」(出 15:26)と言われました。不満を捨てるように導いてくださり、いやしてくださる神を日々黙想することから敬虔訓練は始めなければなりません。 ② 不平なしに生きること 不平なしに生きることは簡単なことではありません。しかし、不平の種をそのままにしておくならば、心の庭園には不平という雑草が生い茂ってしまいます。 アメリカ、ミズーリ州のカンザスシティで牧会をしているウィル・ボーウェン牧師は、2006年に「人が経験するすべての不幸の根は不平である」ことに気がつき、不平撲滅キャンペーンをすると同時に、不平撲滅のための意識改善プログラムを始めました。約200名の小さい教会から始まった「不平のない世の中」キャンペーンは口から口へと伝えられ、地域の注目を浴びながら全米に広まりました。ここでは不平の状態を4つの段階に分けています。一つ目は意識せずに不平を口にする段階、二つ目は意識して不平を口にする状態、三つ目は意識して不平を口にしない段階、四つ目は意識せずに不平を口にしない段階です。ボーエン師が提示している実践方法は簡単なものですが、その効果は強力です。それは、手首に紫のゴムバンドをして、不平を言うたびにもう一方の手首に移すものです。21日間不平を耐え忍ぶならば、ゴムバンドを片方に動かさなくても、不平は消えてなくなるそうです。このようなプログラムによって、これまで80カ国で600万個のゴムバンドが使用されました。 不平は習慣です。頻繁に不平を抱くと、不平の人になってしまいます。そして、習慣になれば、催眠術にかかったように不平に明け暮れるようになります。不平で溢れた者から見るこの世は、否定的で憂うつなものです。不平なしに生きようと思うことが始まりです。不平の言葉や行動を諭すための方法として、ゴムバンドを利用したり日記を書くなどの方法を用いてください。 ③ 不平を肯定的な言葉に変える 不平を意識するようになれば、不平と決別することができます。実際、不平は習慣的な言葉で表現されるために、言葉が非常に重要になります。不平を重ねることによって不平に屈して生きていくのか、あるいは反旗を翻して生きていくかは選択できます。不平が出そうなときはすぐに「大丈夫。こんなこともある。私が知らない良い意図があるはずだ」と肯定的な言葉に変える訓練が必要です。たとえ私たちが理解できなくても、偶然や目的のないことは起きないからです。 出エジプト記のイエスラエルの民だけではなく、私たちも生きていると絶えず不平をこぼしてしまう存在です。問題は、神の恵みによって救われた人々も人生の旅路で小さいことにも不平を言うことがあるということです。不平を持たずに生きていく訓練は敬虔訓練の中心です。不平という漁港の中には敬虔という一流の魚は生息できません。 「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな」(詩37:7)。主は不平を抱かず、静まり、耐え忍んで主を待つ者に主の姿に似ていくように導いてくださいます。
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