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日本キリスト教の足跡を追って ⑪
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戦後民主主義とキリスト教 |
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戦後民主主義とキリスト教 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
大正のデモクラシーと平和主義は、戦争によって吹き飛ばされ、惨憺たる敗戦によって日本も日本の教会も滅びるばかりでした、しかし、狂気の嵐が去り、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の占領を契機に民主主義は息を吹き返し、一転してキリスト教ブームが訪れます。日本国憲法と教育基本法に基礎づけられた戦後民主主義により、キリスト教は、宣教と教会形成のため、これまでにない基盤を得ることになります。
1. 総懺悔運動と新日本建設キリスト教運動 1945年8月28日、戦後初めての記者会見をした東久邇首相は、「国体護持ということは理屈や感情を超越した固いわれわれの信仰である。先祖伝来我々の血液の中に流れている一種の信仰である」と語り、国体護持、つまり天皇制の維持が至上命題であることを明らかにします。そして「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩である」として、「国民総懺悔運動」が始まります。賀川豊彦は内閣の参与に就任し、総懺悔運動への協力が始まりました。宗教団体法は1945年12月に廃止、宗教法人令が施行され、日本基督教団は、賀川豊彦を中心に新日本建設キリスト教運動(1946~49年)に邁進します。 国家の束縛がなくなった日本基督教団からは旧教派の離脱が始まり、また数多くの宣教師団が来日、その数は1947年に36を数えました。戦時中、出征や徴用、疎開などで閑散としていた教会には多くの人々が集まるようになりました。 1947年4月には新憲法による初の衆参両議院選挙が行なわれ、参議院に10人、衆議院に21人のクリスチャン議員が当選します。5月には富士見町教会の長老で社会党の片山哲が組閣、文部大臣森戸辰男など6人の大臣と衆議院議長松岡駒吉もクリスチャンでした。新制東京大学の総長は無教会の南原繁が務め、教育基本法の制定など民主主義の骨格造りに貢献し、次の東大総長矢内原忠雄も当時の青年たちに大きな影響を与えます。
〈 南原繁(1889~1974) 〉
2. 日本国憲法と教育基本法 日本人320万人、アジアでは2000万人と言われる人々が死亡したアジア・太平洋戦争を教訓として、1946年11月3日に公布された日本国憲法は、第9条に「戦争の放棄」を定めます。 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」 この驚くべき条文について、文部省の中学生向けの副読本『あたらしい憲法のはなし』(1947年)は、次にように説明しています。 「そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」 1945年12月、GHQによる「国家と神道の分離の指令」により、日本人の心を支配した国家神道が解体されます。御真影の奉安殿は取り壊され、海外の神社は破壊されました。靖国神社をはじめとする神社は宗教法人となり、「県社」などの文字は塗りつぶされました。東大の南原総長は、1946年2月11日、天皇の人間宣言を踏まえ、「新日本文化の創造、道義国家日本の建設」を熱っぽく語りかけました。南原は、天皇制の維持は認めましたが、戦争責任のゆえに天皇の退位を求めました。戦争の放棄に賛同しましたが、自衛軍の維持と将来の国際貢献を考え、日米安保条約と抱き合わせの講和ではなく、永世中立と全面講和を主張しました。そして文部大臣安倍能成と共に、民主的で自由な教育のための教育基本法を生み出します。国が教育を支配し、天皇の民(臣民)を養成した教育勅語の体制は、根本的に改められました。 「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われなければならない」(教育基本法 第10条第1項)
〈 『あたらしい憲法のはなし』(1947年) 〉
3. 「福音派」の形成 戦後のプロテスタントは、日本基督教団を中心に日本キリスト教協議会(NCC)に加盟する戦前からの教派と、日本福音同盟(JEA)に結集して「福音派」と総称されるグループに二極化しつつ進展しました。福音派は、聖書無謬説に立つ保守的信仰と、熱心な伝道、敬虔な生活を重んじます。つまり福音派は、聖書を自由に批評して福音を相対化する自由主義神学と社会運動に傾く世界教会協議会(WCC)の路線と一線を画したのです。プロテスタントの信徒数は1948年の20万人から1968年の40万人に増加しています。 日本基督教団から旧教派やその一部が独立して設立された団体は、日本聖公会(1945年)、イムマヌエル綜合伝道団、基督兄弟団、日本キリスト改革派教会、日本救世軍(1946年)、福音伝道教団、日本ナザレン教団、日本バプテスト連盟、日本福音ルーテル教会(1947年)、日本同盟基督教団(1948年)、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、日本ホーリネス教団、日本アライアンス教団、日本神の教会連盟(1949年)、日本アドベント教団(1950年)、日本基督教会、日本イエス・キリスト教団(1951年)、日本自由メソヂスト教団(1953年)などです。 戦後来日した宣教団によって設立された団体には、福音交友会(1947年)、日本ルーテル同胞教団、日本聖契キリスト教団(1949年)、日本メノナイト・ブレザレン教団、世界福音伝道団(1952年)、日本基督長老教会、日本福音自由教会協議会(1956年)、日本伝道福音教団(1958年)、日本新約教団、リーベンゼラ・日本伝道会(1961年)、チャーチ・オブ・ゴッド、日本バプテスト教会連合(1965年)などがあります。中国の共産化により日本に派遣された団体も多く、チャイナ・インランド・ミッションは国際福音宣教団(OMF)となり北海道福音教会協議会を、ドイツ・アライアンスは同盟福音基督教会、スウェーデン・カベナントは日本聖約キリスト教団を設立しました。 これらの団体は、当初はそれぞれの歩みをしていましたが、次第に協力関係を強めるようになります。
〈 宣教百年記念大会(1959年) 〉
4. 宣教百年記念大会 1959年にはNCCによる宣教百年記念大会が開催され、11月1~7日、千駄ヶ谷体育館での記念式典を中心に多くの集会が催されました。記念式典では八代斌助が説教、WCCのウイザー・トーフトらが祝辞を述べ、渡辺善太は記念講演「日本プロテスタント宣教の回顧と展望」において、日本の教会が堅実に歩み続けるようにと語りました。教職50年以上の82名、40年以上の307名、信仰生活50年以上の信徒3,443名が表彰されています。前後してラクーア伝道(1950、54~59、61~66年)、東京クルセード(1959、61年)など米国教会の支援による盛んな伝道が繰り広げられました。
福音派の諸団体は、宣教100年を契機として結束を強めるようになります。NCCによる大会とは別に宣教百年記念聖書信仰運動を行ない、「聖書は十全に霊感された無謬なる神のことばで、信仰と生活の唯一の規範たることを信じる」と表明して協力関係を築きました。1960年には日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)が成立。改革派からホーリネスまで、カルヴァン主義とウェスレアン神学の相違を超えた聖書信仰による一致が図られたのです。1965年には福音派の聖書学者が結集して新改訳聖書が刊行され、1968年には日本福音同盟(JEA)が創設されました。
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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