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日本キリスト教の足跡を追って ⑨
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戦時下の弾圧と信仰 |
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戦時下の弾圧と信仰 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
今回と次回は、アジア太平洋戦争の時代(1931~1945年)のキリスト教です。当時は、アジアを解放し大東亜共栄圏を打ち建てるための大東亜戦争と呼ばれました。1931年の満州事変に始まり、1937年から日中戦争に拡大、1941年から戦線は太平洋地域に拡大しアメリカを中心とする連合国軍との太平洋戦争となりました。満州事変からの一連の戦争であるため、15年戦争あるいはアジア太平洋戦争と呼びます。今回は、戦時下の教会への弾圧と信仰について、次回は妥協と罪についてです。
1. 日本基督教連盟「社会信条」の夢 今から100年前の1909年、21歳の神学生賀川豊彦は、神戸新川のスラムに居を構え、伝道と隣保事業を始めます。ぬかるんだ狭い路地、汚物や逆流した下水、糞便の悪臭、ねずみと南京虫、コレラや腸チフスに天然痘が蔓延するスラムは東京ドーム約2個分。そこに11,000人が暮らしていました。それからの経験に基づく彼の自伝的小説『死線を越えて』(1920年)は大正期の大ベストセラーとなりました。消費組合(生協)を起こし、労働争議(ストライキ)を指導し、農業組合(農協)を結成した賀川は、1923年の関東大震災の被災者を救援し、「百万人救霊運動」ならびに「神の国運動」を展開します。これは1930年の日本基督教連盟による「神の国運動」に発展しました。 大正デモクラシー期の教会の社会奉仕における理想は、1928年の日本基督教連盟「社会信条」によく表されています。「我等は神を父として崇め人類を兄弟として相親しむる基督教的社会生活を理想とし基督によって示されたる愛と正義と融和とを実現せんことを祈る」と語り、以下のような主張をしています(抜粋)。 人の権利と機会の平等、人種及民族の無差別待遇、婚姻の神聖、女子の教育、児童人格の尊重、日曜日公休法の制定、公娼制度の廃止、国民的禁酒の促進、最低賃金法・小作法・社会保険法・国民保険に関する立法の完備と施設、生産及消費に関する協同組合の奨励、傭人と被傭人の協調機関設置、合理的労働時間の制定、所得税及相続税の高率累進法の制定、軍備縮小・仲裁裁判の確立・無戦世界の実現。
2.『神社に対する疑義』 これより少し前、明治以来の神社非宗教政策に対し、日本基督教会札幌北一条教会の小野村林蔵牧師は『神社に対する疑義』(1925年)において断言します。 「政府当局者は神社は宗教で無いと主張する。そして神社局と宗教局との官制上の区別を指示して、神社が宗教でない絶好の証拠であるかのやうに言ふ。併し斯んな申訳には私は断じて承服し得ない。元来神社が宗教であるや否やといふような問題は、行政官庁の関わり得べきことではない。(中略)神社が宗教局の管掌範囲に属しやうと、はた神社局のそれに属しやうと、また内務大臣や、文部大臣が、それに就いて何んな訓令を発しやうと、それで神社が宗教であるや否やの事実に、些の変動も生ずべきでない」 これは日本基督教会の第31回大会(1917年)の「神社に関する決議」の立場でした。ところが15年戦争期に入り、神社問題は顕在化します。1929年と31年に、ワイドナー宣教師の美濃ミッションが子供たちの神社参拝拒否で迫害を受けます。1932年には上智大学の学生の靖国神社参拝拒否事件、1935年には同志社の講武館神棚設置事件、とりわけ朝鮮半島においては神社参拝の強制が熾烈になりました。
〈 美濃ミッション排撃を訴えるポスター(1933年) 〉
3. キリスト教への弾圧 1937年に日中戦争が始まると、東京帝国大学経済学部の矢内原忠雄は『中央公論』に「国家の理想」を書き、平和と正義に反して中国大陸への侵略を重ねる日本は滅亡すると論じ、藤井武の記念会で「日本の理想を生かす為に、一先ず此の国を葬って下さい」と語り大学を追われました。無教会の石原兵永、伊藤祐之、政池仁、藤澤武義、鈴木弼(すけ)美(よし)らは日本の戦争政策を批判し続け、浅見仙作は反戦、イシガ・オサムは兵役拒否で弾圧されました。南原繁は『国家と宗教』(1942年)により、学者として国家の危機に警鐘を鳴らします。 1938年、大阪憲兵隊は大阪府の教会とキリスト教主義学校に13条の質問状を送りつけ、天皇と神のいずれに従うのかとの問いを突きつけました。1940年には救世軍司令官植村益蔵らがスパイ容疑で逮捕され、救世軍は救世団と改称させられました。同じ年に賀川豊彦は渋谷憲兵隊に検挙されています。賀川は1943年にも大阪で拘留され、憲兵隊本部で尋問されました。1941年にはプリマス・ブレズレンの6名も検挙されています。こうした中、1941年6月24~25日、日本基督教団は創立総会を行ない、11月24日に文部省の設立認可を受けます。1942年には日本基督教団第六部と九部の旧ホーリネス教会の牧師たちが全国で一斉に検挙され、追加検挙を加えると逮捕者134人、内75人が起訴され14人が実刑判決を受け、7人が獄死しました。再臨信仰が治安維持法に違反するという理由でした。1944年には小野村林蔵が神社不敬で検挙、1945年には聖公会主教の佐々木鎮次、須貝止が憲兵隊に拘禁されました。 多くの教会堂が軍に接収され、軍需工場、兵営、疎開者の住居などに使われました。浦上天主堂は原爆で崩壊し、ポツダム宣言受諾後の8月18日、カトリック横浜教区長の戸田帯刀は暴漢に射殺されました。
4. 平和への最後の努力 賀川豊彦は日中戦争に反対でしたが、自国の戦争に従わざるを得なくなります。1941年、日本基督教連盟は戦争回避のため、阿部義宗、賀川豊彦、小崎道雄、河井道子、斉藤惣一らの日本代表団をアメリカに派遣しました。両国代表は4月20日から5日間、カリフォルニアのリバーサイドで共に祈り、親交を確認します。賀川は8月に帰国するまで講演旅行を続けて平和を訴えましたが、対米戦争は始まり、彼は戦う国の民として発言するようになりました。非戦平和主義の賀川でも戦争を是認しなければならなかったのです。亡命するか獄中にいるかしない限り、平和を語ることはできなくなりました。 矢内原忠雄は、独立伝道者として自由ヶ丘集会の青年たちと聖書研究およびキリスト教古典の研究を行ない、教友に『嘉信』を送り続けました。拘留と裁判に明け暮れる札幌の浅見仙作を気遣い、非戦主義者の戦死を戦争終結のための犠牲として悼みました。 台湾出身の周再賜は、前橋の共愛女学校で英語教育を守りながら忍耐を続けます。時勢には逆らえなくても時弊を時弊として認識し、実際と理想の食い違いに信仰を根こそぎに抜き去られないよう信仰の忍久力を持てと自他を励ましました。
5. どこまでもキリストに従いたい 狂気の支配する息苦しい時代の中でも純粋な信仰で伝道を続けた人々がいました。日本軍の侵略に苦しむ満州の人々への伝道をめざして満州伝道会が発足したのは1933年のことです。この会はやがて東亜伝道会と改称され、伝道は中国全土に拡大されました。1941年9月の報告書によると、教会・伝道所79、伝道者109人(内日本人30人)、開教以来の受洗者は2349人を数えました。山口高商助教授の福井二郎は、召命を受けて辞職、1935年から満州熱河省承徳に赴きました。彼は毎朝「私の山」と呼ぶ山で祈り、中国の兄姉と共に毎日聖書を学び、また祈ります。中国視察旅行でそんな福井の生活を見た沢崎堅造は、京都大学助手の職を辞し熱河伝道に身を投じました。沢崎は奥地へ奥地へとキリストに従って伝道を進め、ついに蒙古にまで足を伸ばします。伝道旅行から西林に戻ると、留守宅では1歳の次男新の葬儀が行なわれていました。彼は棺を囲んで祈る人々に加わり祈りをささげます。このことを綴った詩「新(あらた)の墓にて」には、次のような一節があります。 蒙古伝道― それは余りにも重々しき言葉 小さき旅に 小さき死が 供えられたり 愚かなる父を励ますため この児は 死を以て 再び帰へることなきよう 我が脚に 釘打てり
敗戦の1945年8月、参戦したソビエト軍南下の混乱の中、この伝道者は消息を絶ち、再び帰ることはありませんでした。捕らえられスパイ容疑で銃殺されたのです(沢崎堅造『新の墓にて』未来社)。 広島流川教会は原爆の焼け跡に鉄筋コンクリートの残骸を晒し、沖縄の首里教会(旧メソヂスト)の教会堂焼け跡では銃撃戦が行なわれました。全国では482の教会が空襲による焼失など、何らかの形で罹災していました。
〈 首里教会の廃墟に立てこもる日本軍を攻撃するアメリカ海兵隊(石川政秀『沖縄キリスト教史』より 〉
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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