|
愛の交響曲④
|
愛はすべてをおおいます |
|
愛はすべてをおおいます
ハ・ヨンジョ ● オンヌリ教会主任牧師
今回は「愛はすべてをおおいます」という主題で、3つめのグループに対するメッセージを伝えたいと思います。
5つの愛 第一コリント13章7節から8節を見ると、愛に対する5つのメッセージが出てきます。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます」(Ⅰコリ 13:7~8)。 まず第一に、愛はすべての咎と過ち、罪をおおってくれます。愛には私たちの咎と罪、過ちを血潮によってきよめ、おおってくれる、そのような力があります。愛の特徴はおおってあげることです。弱みや短所を常に探し出し、暴き、痛いところを責めることは愛ではありません。ある人は罪と咎をすべて明らかにしなければ人は変わらないと言いますが、そうではありません。忍耐し、おおってあげることで変わるのです。暴き出すなら、傷、恨み、憤り、復讐心ばかりが生じます。そのため、できるはずのことも失敗してしまい、結局は深い傷を抱えこみ、怒りや殺意までも持つようになってしまうのです。 第二に、愛はすべてを信じます。愛するとき、その人をひたすら信じるようになるのです。今は失敗ばかりで資格すらないように思える人を愛するならば、励まし、信じてあげられるようになります。その人なら必ずできると信じ、絶望から勝利へ飛び越えられると信じてあげるのです。それが愛です。 第三に、愛は相手に絶えず希望を与えます。「あなたならできる。やってごらん。大丈夫。絶望しないで。劣等感に陥らないで。後ろを見ないで。最後までやってごらん。」こんなふうに勇気を持たせてあげるのです。 第四に、愛はすべてを耐え忍びます。最後まで耐えなければなりません。これはオリンピックでマラソン選手が最後まで完走する姿を連想させます。 最後に、クライマックスのような愛の定義です。愛は決して絶えることがありません。愛は永遠に変わらず、私たちに力を与えます。これがこのみことばの要点です。
分裂したコリント教会 使徒パウロは第一コリント13章でなぜこのような文を書いたのでしょうか。その理由は、コリント教会を見ればわかります。コリント教会は建てられてからあまり時が経っていませんでしたが、道徳的に腐敗し、偶像を崇拝し、不品行を行い、派閥を作って深刻な争いが起こっていました。イエスを信じる人々にとって一番心の痛むことは、互いに争い、教会が分裂することです。このようなことは現代にだけ見られることではありません。初代教会の頃からあったのです。 コリント教会にあった問題点を要約すればこのようになります。第一に、派閥がありました。ある人々は、“私はパウロ派だ”と言いました。またある人々は“私はイエスの一番弟子のケパ(ペテロ)派だ”と言いました。パウロとペテロには争いなどなかったのに、コリントの教会員同士、派閥を作って激しい戦いが起こりました。またある人々は、“私はアポロ派だ”と言いました。アポロは学者肌の人でした。 とてもおもしろい派閥がもう一つあります。“私はパウロもケパもアポロもみな嫌だね。私はイエス派だよ”と言うのです。この教派も、あの教派もみな嫌なので、いっそ教派のない教派を作ったのです。それなら、そこには問題がないでしょうか。いいえ、問題は同じくあるのです。
問題はあるが、答えはない 第二に、コリント教会には不品行の問題がありました。5章の1節を見ると、自分の父の妻を妻にしている人が教会の中にいました。問題の深刻性は、このような問題があれば、何らかの措置を取るべきなのに、何もしなかったということです。それほど不品行が教会の中に公然と受け入れられていたのです。 第三に、訴訟が起こっていました。信者の間の問題は、可能な限り法廷まで持っていかず、教会の中で解決しなければなりません。コリント教会では、訴訟を起こして世の中の法廷に行き、裁判官から恥をかかされる事件がありました。 第四に、偶像崇拝のためにささげた肉を食べてもよいかという問題を巡って争いがありました。元々喧嘩の多い家は、些細な問題を巡ってもひどく争うものです。喧嘩しない家は知恵深くその問題を解決します。また、コリント教会は賜物の問題でも激しく争いました。誰が賜物を一番多く受けたのか、誰が最も霊的なのかを巡って争いました。実際、一番霊的な人は争いません。信仰の成熟していない子どものような人は、預言が先だ、信仰が先だと争います。このような問題は教会だけでしょうか。家の中でもこのような問題はどれほど多いでしょうか。話を聞いてみると、すべて一理あるのですが、答えはないという場合が多いのです。 方法は“愛” このような問題を、使徒パウロはすべて聞き、“そこまで!”と言います。“もう争うのはやめなさい。神のみことば、愛に立ち返りなさい。この問題を解決できるのは愛です。分裂のある所に、派閥のある所に、不品行のある所に、不道徳な所に、訴訟のある所に、偶像崇拝のある所に、愛がなければならない”と訴えたのです。 “愛は万能の薬です。愛を抱けばすべての問題は消え去ってしまいます。愛はいやしと回復、一致と一体、純潔と道徳、和解と信頼を与える”ということです。愛があるとき、根本的ないやしがあるのです。 使徒パウロは第一コリント13章で15の愛に対する本質を語りました。使徒パウロはすべてをやめ、愛でおおうようにと言います。 愛する聖徒の皆さん。皆さんの家庭に問題が生じたなら、まずはおおってください。責めるのでなく、おおってあげるとき、いやしが始まります。批判しなくなります。ある人は、“おおってしまえば問題はそのままじゃないですか。誰が問題を解決するんですか”と言います。皆さんが解決するのではなく、神がなさるのです。神が問題を解決してくださるということを信じなければなりません。どうしようもなかった人、あきれるようなことを引き起こした人が、愛を受けるなら、心が解け始めます。信じてください。その人に希望のメッセージを伝え、最後まで耐え忍ぶ信仰を見せてください。 愛はすべてをおおいます 7節をもう一度読んでみたいと思います。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(Ⅰコリ 13:7)。 すべてをがまんできるようにしてくれるものは何でしょうか。お金でもなく、説得力でもありません。愛です。愛するならば、相手の欠点をもがまんし、おおってあげることができます。コリント教会の問題をどのように解決しますか。法廷に行って解決できることではありません。分裂、派閥、分派、不道徳、偶像崇拝、訴訟の問題をどのように解決しますか。答えは愛です。イエスです。 「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は」(詩 32:1~2)。
アダムとエバを見てください。彼らは罪を犯した後に恥ずかしさを感じて、いちじくの葉で体をおおいましたが、神はどうされましたか。アダムとエバが作った衣の代わりに皮の衣を着せてくださいました。これが「おおう」という意味です。 放蕩息子には待っていてくれる父がいました。父は彼が犯した罪とは関係なく、息子を赦し、受け入れ、守ってくれました。息子の罪を問わず、ひどい臭いのする息子を抱きしめ、指輪をはめてやり、食事を与えました。これがまさに「おおう」ということの意味です。
愛はすべてを信じ、すべてを期待します イエスを見てください。イエスの十二弟子のうち、失敗の多かった弟子は誰でしょうか。ペテロです。感情的で感性的なペテロは、起伏の激しい人でした。ペテロはイエスからサタンと戒められたりもしました。しかし、イエスは最後までペテロを信じてくださいました。結局、ペテロは初代教会のリーダーとなり、殉教者となりました。これが信仰です。罪をおおい、その人を信じ、その人に希望のメッセージを伝えるなら、その通りになります。 また、愛はすべてを期待し、希望を与えます。ノアは洪水の後、地が乾いたかどうかを確かめるために鳩を送ります。鳩はオリーブの若葉をくわえて帰ってきます。この若葉は希望を伝えるものです。もはや洪水は過ぎ去り、地は乾いたのです。皆さん、周りの人々に愛していると伝えてください。これが希望の種、希望の若葉です。受験に失敗し、どこにも道がないと思っている人に、希望を伝えてください。病気の人にもこのノアの若葉のような希望を伝えるなら、生き返り始めます。自殺を考えていた人も、再び目を輝かせ、生きなければという思いを持つことでしょう。愛は人に希望を芽生えさせてくれるのです。 そして、愛はすべてを耐え忍びます。人々はしばしば危機にぶつかります。絶望を感じ、絶対に不可能だと諦めてしまいたくなる出来事がたくさんあります。しかし、もし神が私たちに対する愛を諦めてしまわれたなら、私たちの救いはどうなるのでしょうか。イエスは十字架につけられ、死さえも耐え忍ばれたために、私たちが救われたのではないですか。 最後に、愛は永遠です。預言はすたれ、異言もやみ、知識もすたれますが、永遠に残るものは愛です。皆さんの家も、車も、職場も、愛着あるすべてのものは消え去りますが、皆さんの中にある愛は残ります。 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハ 4:10)。 第一コリント13章4節から8節まで、“愛”という言葉の代わりに、“私の中におられるイエス”という言葉を入れて読んでみてください。私にはできません。しかし、私の中におられるイエスには、おできになるのです。このような神の祝福が、皆さんとともにあることを願います。
|
|
|
|
|