大正デモクラシーと教会の「成長」 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
日本プロテスタント150年の歴史において、最も盛んな伝道が行なわれたのは20世紀初頭の30年間でした。「教育と宗教の衝突」とアジア太平洋戦争に挟まれたこの期間、20世紀大挙伝道から神の国運動まで、各派が協力してすべての日本人に福音を届けようと励みました。その結果、信徒数は1900年の3.7万人から1925年の17.8万人に急増します(日本基督教連盟編『教勢調査報告』1928年)。国民感情と融和し、大正デモクラシーを追い風に伸長した伝道と教会の「成長」について考えましょう。
1. 20世紀大挙伝道 田村直臣は、日本の結婚制度を批判的に紹介したThe Japanese bride(『日本の花嫁』)が売国的であるとして日本基督教会から教職を剥奪されました。「教育と宗教の衝突」論争の時期のことで、日本基督教会は田村の著作が国民感情を逆なですることを懸念したのです。その田村が、1901年から翌年にかけて行なわれた20世紀大挙伝道で再び活躍を始めます。19世紀末期の沈滞ムードを払拭したと言われる20世紀大挙伝道に火をつけた一人が田村でした。 福音同盟会は、全国の教会が2月10日の礼拝でゼカリヤ4章16節から説教することを呼びかけ、20世紀大挙伝道が始まりますが、最初から盛んだったわけではありません。田村が指導した京橋区でも、最初の連合祈祷会に集まったのはわずか30名でした。教派を超えた有志が祈祷会、広告配布、戸別訪問、トラクト配布、路傍伝道、子供集会を行ない、田村は5月の第二日曜日から3週間、毎晩説教をします。その結果、「祈りも活気あり、精神も一致し、明らかに聖霊の燃ゆる焔を見た。日を重ねるに従ひ、聖火は尚々燃え上がった」(田村直臣『信仰五十年史』)のでした。京橋区のリバイバルは東京全市から全国に波及し、東京だけで5,309名が悔改めて求道者となりました。中田重治とC・E・カウマンが神田の中央福音伝道館で伝道を開始したのもこの時期です。 田村は、これを機にそれまでの大人中心の伝道を反省し、子どもを育てる伝道に転換しました。教会堂に子ども用のイスを備え、分級室を設け、ピアノも導入しています。1907年には日本日曜学校協会が設立され、1920年には東京で世界日曜学校大会が開催されました。世界32カ国からの参加があり、当時の日本では珍しい世界会議に注目が集まりました。
2. 開教50年と伝道 霊南坂教会の小崎弘道は、開教五十周年記念祝賀会(1909年)において「五十年の回顧」と題して語り、1901年以降の時代を「成長の時代」と言い、次のように評しました。 「此教勢不振の形勢を一変したのは三十四年の大挙伝道であって、此より伝道の形勢が順境に変わったのである。其後に起った日露戦争は我国民の思想を世界的になす上に非常な効力があった、殊に戦争中天皇陛下より一万円の御下賜金が基督教青年会の天幕事業にあった事は我国民に偉大なる感動を与へ基督教に対する凡ての偏見悪感を根本より排除したと云ふ事ができる。」 日本伝道の中心にいた人物の感覚として興味深い見解です。欧化期の伝道では地方の有力者の入信が目立ちました。これに対し、この時期の伝道は各教派の協力により都市の中流知識層を集会に集めることで進展しました。1910年にエディンバラで開かれた世界宣教会議を受け、翌年には日本基督教会同盟が結成され、全国協同伝道(1914~16)が行なわれます。全国で3,306回の集会が行なわれ、聴衆618,647人、志道者21,152人を集める大成功でした。経費6万3千円の内2万7千円は、世界宣教会議の立役者、J・R・モットと在日宣教師が負担していますから、まだまだ自立はできていません。こうした協同伝道は、1924年の全国基督教教化運動を経て、賀川豊彦の「神の国」運動(1930~33年)に繋がります。政府や民間の協力もあり、学校や公民館が伝道集会の会場となりました。大内三郎は、「日本キリスト教史において、この時期ほどキリスト教に対して政府(または民間)が親近感をもった時期はあるまい」と言っています。 このように日本プロテスタント史は「成長期」を迎えました。ところが、それは日韓併合により日本が朝鮮半島での支配を本格化させる時代でもありました。
3. 植民地伝道 日清戦争によって植民地とした台湾への入植は、2年間で2万人を越え、日本基督教会をはじめとする各教派は、在台湾日本人への伝道を開始します。井上伊之助は、台湾先住の山地人に父親を殺害されたことをきっかけに医療宣教師となりました(『台湾山地人伝道記』)。 朝鮮においてリバイバルが起こったのは日韓併合前夜の1907年のことです。日韓いずれの教会でも、民族心との融和の中で教会が成長しますが、日本は順風の中で、朝鮮では逆境の中での成長でした。民族心との協調は、日本では国策協力、朝鮮では独立運動という形で現われます。 日韓併合の1910年、朝鮮における信徒数は198,974人で、日本の2.5倍でした。日本政府は朝鮮統治のために独立運動の中心であるキリスト教の懐柔を図り、日本組合基督教会がその役を引き受けます。これを推進したのは、海老名弾正の弟子で京城学堂長の渡瀬常吉でした。彼は「朝鮮伝道に関する宣言」において次のように言っています。 「此時に於て韓国我に併合せられ、朝鮮八道一千二百万の同胞亦等しく我が王化に浴するに至れり。(中略)我が新同胞に福音を宣伝し同時に之が精神的同化の実を挙げんが為に、ここに愈々朝鮮伝道の大事を決行し一日も早く朝鮮の事情に精通せる我が代表的伝道者を該地に送り、以て天人等しく希望するの事業に手を染めんとす。ただ遺憾なるは我が教会が未だ資力豊かならざるの一事なりとす。而も若し一片我が内外有志の賛助を得んか、吾人の微力必ずしも嘆くを要せず」
実際この伝道は、朝鮮総督府と大隈重信・渋沢栄一らの政治家、岩崎・三井・住友・古河といった財閥の後援を受け、朝鮮人の同化(臣民化)というもう一つの目標をもって行われました。1920年の統計では、組合教会の年間支出約3万円に対し、朝鮮伝道の支出は8.3万円です。その内、教会外からの寄付が6万円もあり、そこには朝鮮総督府の機密費も含まれていました。1911年から1919年にかけて、朝鮮の組合教会は15教会から150教会に、教会員は554人から14,951人に増加しますが、会堂は44しかなく、教会員と言っても6千人は未受洗者でした。1919年の独立運動の結果、政財界からの援助はなくなり、組合教会は朝鮮伝道から手を引き、1920年の教会員は翌年には5分の1に減少しました。 キリスト教が日本の政府や民間と良好な関係におかれ、伝道が進展したことは喜ばしいことです。しかし、植民地における国策協力は反省すべきです。組合教会の朝鮮伝道は、大正期のプロテスタント教会の「成長」の負の一面でした。 このような伝道に対し、同じ組合教会にあっても柏木義円は次のような批判をしました。 「福音宣伝は福音宣伝である。基督の福音は二ある可らず。保羅は基督と其の十字架の他には汝等の中に在て何をも知るまじと心を決たと曰っ居る。基督教の伝道の目的は、単に基督の福音を宣伝して人をして悔改めて神の子とならしむるの一事の外はない」
こうした国策協力の伝道とは別に、個人的な召命感から朝鮮人に伝道した例として、プリマス・ブレズレンの乗松雅休と、ホーリネスの織田楢次がいます。乗松は単身朝鮮に渡り、1896年から1914年まで、朝鮮の服と言葉で京城・水原において伝道しました。織田は1928年から10年間、朝鮮語での伝道を行ない、朝鮮人と総督府の双方からスパイ、独立運動扇動者と疑われますが、警察に拘留されたことから朝鮮教会の信頼を得ます。37年には神社参拝に反対して捕えられ、翌年日本に強制送還されました。戦後は在日大韓基督教会の牧師として生きました。
〈 田村直臣七十歳記念之像(岸田劉生画) 〉 〈 伊藤博文の寄付により建てられた平壌メソヂスト教会 〉 〈 乗松雅休 1863~1921年 〉
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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