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日本キリスト教の足跡を追って ⑥
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聖書・信仰告白・讃美歌・文学 |
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聖書・信仰告白・讃美歌・文学 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
今年、横浜開港資料館において横浜開港150年を記念する企画展「横浜開港と宣教師 翻訳聖書の誕生」が開催されました。ここに、宣教師たちの最初の住居となった成仏寺で写された新発見の写真が展示されました。3月号に、これまで成仏寺の写真とされてきた写真を掲載しましたが、これはアメリカ領事館のおかれた本覚寺であることも判明しました。訂正いたします。
この写真は、撮影者と思われるジョン・ウィルソンの在日期間から考えて、1860年4月から1861年7月の間に撮影されたもののようです。成仏寺に住んだヘボン夫妻、ブラウン家族、ゴーブル夫妻が写っています。宣教150年にふさわしい記念写真の発見は、実に喜ばしいことです。今後は、日本プロテスタント史に必ず添えられる写真となるでしょう。 ところで、この企画展のもう一つの目玉は、バプテストの宣教師ネイサン・ブラウンの翻訳聖書です。バプテストの初代宣教師ゴーブルは、1871年、ヘボンより早くカタカナ書きの新約聖書『摩手(マタイ)福音書』を出版しました。これを引き継いだのが、すでにインドのアッサム地方で現地ごの聖書翻訳を経験した熟練の宣教師ネイサン・ブラウンでした。彼は、日本最初の新約聖書『志無也久世無志與(しんやくぜんしよ)』を1880(明治13)年に刊行します。この稀少本は、昨年300部限定で復刻されました。今回は、彼の美しく上品な装丁の分冊聖書が多数展示されました。その中の三点は、横浜開港資料館だけが所蔵しています。次々に翻訳される聖書や信仰書は、聖書売捌人(コルポーター)が全国に売り歩きました。宣教師ゴーブルもその一人です。神は「ことば」によってご自身を啓示されましたが、今や、その「ことば」が日本語で生き生きと語り出されたのです。今回は、日本語になった聖書、日本語による応答の信仰告白、讃美歌、文学についてです。
1. 「明治元訳」、筆路頗(すこぶ)る雅健なり キリシタン時代にも聖書翻訳の試みはありました。『ベアト写本』としてその断片が残されています。これに対してプロテスタントは、最初から聖書全部の日本語訳に力を尽くします。ギュツラフ訳(1837年)とベッテルハイムの琉球語訳(1854年)はその嚆矢でした。開国後の日本での翻訳は、ヘボンとブラウンによって1861年から始まり、1872年に『新約聖書馬可(マルコ)伝』『新約聖書約翰(ヨハネ)伝』、1873年に『新約聖書馬太(マタイ)伝』が刊行されました。1872年の宣教師会議は、各派合同の委員会による聖書翻訳を決めており、ヘボン、ブラウン、グリーン、奥野昌綱、高橋五郎、松山高吉らが、1875年から1880年にかけて分冊聖書を発行し、1880年に『新約全書』が完成しました。
天上(いとたかき)ところにはえいくわう神にあれ地には平安(おだやか)人にはめぐみあれ ルカ2章14節
旧約の翻訳には植村正久、井深梶之助らも加わり、やはり分冊を経て1888年に『旧約全書』が訳了しました。聖書翻訳完成祝賀会において、ヘボンは新約聖書と旧約聖書(5冊本)を恭しく重ねて机上に置きました。「明治元訳」の完成です。
もろもろの天は神のえいくわうをあらはし蒼穹(おほそら)はその手(みて)のわざをしめす この日はことばをかの日につたへ、このよ知識をかの夜(よ)におくる 語らずいはずその声きこえざるにそのひゞきは全地にあまねくそのことばは地のはてにまでおよぶ 詩篇19篇1~3節
上田敏に「筆路頗る雅健なり」と言わせた詩篇の訳文は、ファイソン、フルベッキ、C・M・ウイリアムス、植村正久、井深梶之助らによるものです。最初の翻訳において、これほど優れた日本語聖書を与えられた明治の教会は幸いでした。 2、信仰告白 横浜公会の最初の規則「公会定規」(1872年4月13日)は漢文調でした。「惣規」の聖書論の後、「可信事」としては使徒信条、これに「可行事」5項目が続きます。「不拝偶像而可拝独一真神」(偶像を拝まず、唯一の真の神を拝すべし)、「為死者不求於神為生者可求於神」(死者のために神を求めず、生者のために神を求むべし)などに、唯一の神を礼拝する決意が示されています。そして、改定案の「公会規則」(1872年秋ころ)では、漢文は読み下され、「惣規」と「可信事」が一つとなり、聖書論、全能の父、独子神、聖霊、公会、原罪、贖罪、復生、審判が述べられます。そこには「神ト人トノ両性ヲ備」「父ト子ヨリ出ヅル聖霊」など、カルケドン、ニカヤ・コンスタンチノポリス信条が反映されています。 しかし、最終的に定められた「日本基督公会条例」(1874年)の信仰諸則は、福音主義キリスト教の運動体であるThe Evangelical Allianceの信仰基礎9ヶ条(1846年ロンドン)の翻訳に落ち着きました。これとの比較で言えば、札幌農学校の一期生が署名したCovenant of believers in Jesusもクラークが起草し、聖書論と使徒信条に基づく簡潔な福音主義でした。これに対して、熊本洋学校の学生たちの「奉教趣意書」は、キリスト教信仰の内容には触れずに、奉教(入信)の動機と意気込みのみを語っています。
余輩嘗て西教を学ぶに頗る悟る所あり、爾後之を読むに益々感発し欣戴措かず 遂に此の教を、皇国に布き大に人民の蒙昧を開かんと欲す。
ちなみに、『ウエストミンスター小教理問答』の最初の和訳本である『耶蘇教略問答 全』(1879年?)は、第一問答を次のように訳しました。
問:人のおもな目的(めあて)とすべきことは何ぞや 答:人のおもな目的(めあて)とすべきことは神のさかえをあらはしかぎりなく神を楽むことなり
3、讃美歌 ことばによってご自分を啓示された神は、絵画や彫像によってではなく、ことばによって讃えられます。そして、聖書が日本語で理解されたとき、日本語による讃美歌が生まれました。
エスワレヲ愛シマス サウ聖書申シマス
これは横浜公会に潜り込んだ諜者、正木護の1872年10月7日付報告に写し取られた讃美歌、“Jesus loves me this I know”の直訳です。この讃美歌は、熊本洋学校の学生たちが花岡山で「奉教趣意書」に署名した折にも歌われました。ちょんまげを切った士族の青年たちがこれを歌う姿を想うと、微笑ましくはありますが、さぞ、ぎこちないものであったに違いありません。 1874(明治7)年、こうした稚拙な歌詞の讃美歌集が6種類発行されます。その後、賛美のことばも洗練され、1888年には、奥野昌綱、松山高吉、植村正久、ジョージ・オルチンにより『新撰讃美歌』が編まれます。46番「神はわが城なり」は、ウォッツの原詩の力強さを本多庸一がみごとに訳出したものです。
『新撰讃美歌』46番 かみわが城なり わがちからなるなり くるしめるときに 近きたすけなり 地うつり海なり 山はうごくとも われらは恐れじ 神われを守る
現行讃美歌286番 かみはわがちから わがたかきやぐら くるしめるときの 近きたすけなり たとい地はかわり 山はうなばらの なかにうつるとも われいかで恐れん
4、文学 『新撰讃美歌』は、当時の新体詩に大きな影響を与えます。島崎藤村の処女詩集『若菜集』(1897年)には、植村正久訳の4番「夕暮れ静かに」を模した「逃げ水」が収録されています。
植村正久訳「夕暮れ静かに」 ゆうぐれしずかに いのりせんとて よのわづらひより しばしのがる かみよりほかには きくものなき 木かげにひれふし つみをくいぬ
島崎藤村「逃げ水」 ゆうぐれしずかに ゆめみんとて よのわずらひより しばしのがる きみよりほかには しるものなき 花かげにゆきて こひを泣きぬ
明治期に洗礼を受けた文学者としては、若松賤子、徳富蘆花、北村透谷、国木田独歩、巌谷小波、木下尚江、正宗白鳥、山村暮鳥、窪田空穂、坪田譲治らがいます。洗礼は受けていませんが、芥川龍之介や太宰治、あるいは夏目漱石も聖書から大きな影響を受けています。「聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さをもて、はつきりと二分されてゐる」と言ったのは太宰治でした(「HUMAN LOST」『新潮』1937年4月)。
〈 新発見写真:神奈川、成仏寺の宣教師たち、横浜開港資料館蔵 〉 〈 委員会訳分冊聖書、新撰讃美歌、メソヂスト教会問答 〉
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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