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日本キリスト教の足跡を追って ⑤
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教育ト宗教ノ衝突 |
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教育ト宗教ノ衝突 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
10年で日本はキリスト教国になるだろうという1880年代の希望は、残念ながら幻に終ります。250年かけて植え付けられた反耶感情はそう簡単に克服できるものではありません。欧化主義の風潮が去ると、そこに残っていたのは相変わらずのキリスト教国害論でした。日本とキリスト教の衝突は、「教育と宗教の衝突」という形で現れます。
1、耶蘇教国害論 1881(明治14)年、大阪の心斎橋で、一枚の番付表が売り出されました。「耶蘇退治馬鹿のしんにゅう」。大馬鹿者の耶蘇教徒を退治する、という番付表からは、当時の伝道の様子が生き生きと見えてきます。西の小結「耶蘇の書籍を車に積上げて市街を売歩く奴」、東の前頭六枚目「耶蘇の提灯を軒に釣り近所を信者に引き入れんとする奴」、東の前頭十五枚目「物だかに十字架を表へたてる奴」。文明開化の風に乗って勢いづくキリスト教は、庶民感情と衝突します。東の関脇「世界中に神はひとりよりないといふて氏神へ参ぬ奴」、西の前頭三枚目「耶蘇を信じて先祖の弔らひもせぬ奴」。番付の勧進元は「耶蘇の信者となって日本の国体を忘れる奴」、差添人は「イエスを国王より尊む奴」です。 パウロの伝道に反発したテサロニケのユダヤ人の叫びが思い起こされます。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。(中略)彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしているのです」(使徒17章6~7節)。 同じ年に『耶蘇教国害論』、『耶蘇教の無道理』という小冊子も出版されました。前者は大阪から各地に広がり、後者はキリスト教の教理を批判しました。裏を返せば、それだけ福音が前進していたのです。
2、教育と宗教の衝突 リバイバルの熱が冷めやらぬ1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布されます。信徒たちは憲法28条の「信教ノ自由」に歓喜しました。バテレン追放令以来302年ぶり!晴れ晴れした人々は、ますます「地の塩、世の光」として励もうと誓い合ったものでした。 当時はあまり気にもされなかったのですが、この「信教ノ自由」には但し書きがついていました。「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」。半世紀後、天皇を現人神とし神社を参拝することが「臣民タルノ義務」となろうとは、まだ誰も心配していません。しかし、聖公会の宣教師サイルは、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」(第三条)は、日本の将来のキリスト教にとって危険であると警告を発していました。 翌1890年の「教育勅語」は、天皇の統治する日本の国体と、天皇に仕える臣民の生き方を示しました。日本における「教育」とは、天皇の民(臣民)を育てることを意味するようになります。そして1891年、内村鑑三不敬事件が起こります。天皇の署名が入った教育勅語への拝礼をためらい、ちょっとだけ頭を下げたことが不敬とされ、井上哲次郎の批判に端を発する「教育と宗教の衝突」論争に進展しました。教育勅語の天皇制国体とキリスト教の衝突です。 内村鑑三は、失意の中で『基督信徒の慰』を著し、やがて日本の近代を代表する思想家となります。クリスチャンの生涯には小さなためらいが大きな意味を持つことがあります。 内村不敬事件の折、教会の反応はさまざまでした。日本組合基督教会の金森通倫は、皇室と先祖の墓への礼拝は宗教の問題ではないと考えました。一方、日本基督教会の植村正久は、キリストの肖像や聖書でさえ礼拝の対象としないプロテスタントは、教育勅語を礼拝することはないと断言します。さらに植村は、御真影や勅語への礼拝は、文明に反する時代錯誤だと喝破しました。 井上哲次郎の批判は、キリスト教は国家主義でなく、来世を重んじ、博愛を説き、忠孝を教えないというものでした。愛国的キリスト教になれと彼は言ったのです。これに対して植村正久や柏木義円は、天皇を政治的権威にとどめ、宗教的権威としてはならないと主張しました。安中教会(群馬県)の牧師、柏木義円は、教育勅語や御真影への礼拝は人の尊厳を損なう愚行であるして、形式的臣民教育に生涯反対を続けました。今日の日の丸、君が代の強制にもあてはまる議論です。 こうした見識が日本の教会の一部にはありました。しかし、逆風の時代となり、各地で仏教勢力による「耶蘇踏みつぶし会」といった反対運動が起こり、欧化期のリバイバルは失速しました。あわせて、ドイツからの自由主義神学によって正統的信仰が揺すぶられ、日本基督教会と日本組合基督教会の合同計画が頓挫したことも重なり、1890年代の教勢は停滞します。1899年には、認可学校でのキリスト教教育が禁じられました(「文部省訓令十二号」)。ナショナリズムとの衝突を回避して、いかに伝道を進展させるかが課題となったのです。
3、日清・日露戦争とキリスト教 近代の日本がその存亡をかけた日清・日露戦争に際して、教会はどのような態度をとったでしょうか。1894年8月1日、日清戦争が始まると、翌日には井深梶之助らが発起人となり、本多庸一を会長に「清韓事件日本基督教徒同志会」が組織されます。義捐金を呼びかけ、東京では演説会を開催し、海老名弾正、本多庸一、厳本善治らを関東各地、関西、信越へと派遣して戦争への支持を遊説したのでした。平和主義のフレンド派は分裂し、内村も植村も柏木も、こぞって日清戦争の義を主張しました。 ところが、日露戦争に臨んで非戦論が生まれます。内村は、朝鮮の独立のために戦ったはずなのに朝鮮は主人を日本に代えただけ、また賠償金は軍備増強のみに使われたと日清戦争の義を主張したことを猛省します。日露戦争には反対の立場をとり、やがて聖書に立って絶対非戦の境地に到達しました。柏木義円もこれに続きます。植村正久は、日露戦争を支持し、時には戦争によって「世の進歩は保証せられ平和は来り理想は近くなるなり」という立場に立ち続けます。非戦論は少数派で、大勢は戦争支持でした。 明治学院のインブリーは、二度の戦争を振り返り、「キリスト教に対する中傷を証明することになるのではないかと恐れられていた戦争は逆に助けとなりました」と言っています。キリスト教は戦争に協力することで日本のキリスト教として認められたのです。
4、開教50年と三教会同 日本の国民感情と協調したキリスト教は、20世紀に入ると再び教勢を伸ばし始めます。1901年から翌年にかけて行なわれた20世紀大挙伝道は、沈滞ムードを払拭しました。 1909(明治42)年、プロテスタント教会は、開教五十周年記念祝賀会を開催します。委員長は小崎弘道とミラー、副委員長に本多庸一、井深梶之助、元田作之進等を立て、10月5日から10日まで、神田青年会館において15回の集会を行ない90人が登壇しました。J・H・バラ、D・タムソンら開教期からの宣教師、上記委員に加え海老名弾正、宮川経輝、内村鑑三、植村正久、田村直臣、新渡戸稲造、山室軍平、留岡幸助とそうそうたる顔ぶれです。会衆は毎回500~600人から1200~1300人という盛り上がりを見せました。 1912年、キリスト教は内務省から国策協力を求められ、仏教、教派神道の代表者と共に協力を約束します。これを三教会同と言います。政府は、外交と内政においてキリスト教の利用を得策と考え、勃興する社会主義を押さえ込むため、宗教に国策協力を求めたのです。キリスト教は、仏教、神道(教派神道)と肩を並べたことを喜び、次のような声明に加わりました。 「吾等ハ各々ソノ教義ヲ発揮シ皇運ヲ扶翼シ益々国民道徳ノ振興ヲ図ランコトヲ期ス 吾等ハ当局者ガ宗教ヲ尊重シ政治宗教及教育ノ問題ヲ融和シ国運ノ伸張ニ資セラレンコトヲ望ム」 こうしてキリスト教と国体の衝突は軽減されます。反耶感情に耐えたキリスト教は、日本に根を下ろし始めました。しかし、政治が宗教を利用することの弊害、利用される宗教の腐敗を厳しく批判する人々もいました。内村鑑三や柏木義円がそれでした。
〈 「耶蘇退治馬鹿のしんにゅう」、1881年 〉 〈 井上哲次郎『教育ト宗教ノ衝突』、1893年 〉 〈 宣教開始五十年記念会委員、1909年 〉
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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