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日本にささげるLove Sonata
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道、真理、いのち |
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道、真理、いのち
ハ・ヨンジョ ● オンヌリ教会主任牧師
二種類の人 人には二種類の人がいます。自らの力で生きている人、そして、神の力を信じ、拠り頼んで生きている人です。自らの力に頼って生きている人は、些細なことに絶望し、挫折し、寂しさを感じ、心に迷いがあります。その結論として、自殺しようと考えます。自らの力で生きている人には、人生の目的がないのです。 しかし、もう一人の人がいます。自分を造ってくださった創造主なる神を信じ、頼って生きている人です。こういう人はいつも希望の歌を歌っています。愛の歌を歌っています。信仰によって生きているのです。すべての人が離れていっても寂しくありません。死が近づいても決して恐れません。神がおられるので、そのように生きることができるのです。 皆さんはどうでしょうか。自らの力で生きていますか。それとも神の力に頼って生きていますか。私は皆さんが神の力に頼って生きる人となられるように祝福します。 神に頼るということは、人間が弱いから頼るのではなく、神を頼ることが人間の本質だからです。それはごく自然なことです。人間が弱いから太陽に頼るのではありません。太陽がなければ人間が生きていけないからそうするのです。では、神とはどんなお方ですか。 二種類の神 神には、二種類の神がいます。一つは、人間が作った神です。人間は不安です。不安定です。また、人間は必ず死にます。ですから自分より強い人、強い存在を求めるのです。人々はそれを神と呼びます。何百年経った木を神と呼ぼうとします。富士山、白頭山、ヒマラヤ山脈のような高い山々を神と呼ぼうとします。不思議な形をした石を見ると、それを神と呼ぼうとします。これが、人間が作った神です。 また、このような神もいます。昔の立派な将軍、英雄たち、国を建て上げた人物を神とする場合もあります。ある人は先祖を神として拝んでいます。それは全部人間が作った神です。空の星、月、太陽も拝みます。ある人は悪霊を拝みます。何かのお守りをつけたりしています。それを神だと考えています。皆さん、このような神はギリシャ神話に見られる神ではないでしょうか。人間の作った数多くの建国神話に出てくるものです。日本にもこのような神がどんなに多いことでしょう。 人間は弱く、不完全な存在であるため、何かにすがりたくなるのです。それはまことの神ではありません。人間が作った神です。人間が作った神は人間を救うことができません。人間が作った神には限界があります。いのちを与えることができません。人間が作った神は失望を与えるだけです。 では、まことの神はどんなお方ですか。人間が作った神ではありません。もし、まことの神がおられれば、自ら存在されるお方です。人間は、体です。物質です。ですから、まことの神は霊でなければなりません。人間は死ぬべき存在です。まことの神は死のないお方です。また人間は時間の中に存在しています。しかし真の神は無限の中に存在しています。地球と人間は被造物です。真の神は創造主です。その真の神に、どうすれば出会うことができるでしょうか。どうすればその方を知ることができますか。人間は神を知ることができません。ですから、真の神が人間に会いに来られたのです。その方がイエス・キリストです。イエス・キリストは真の人間でであり、真の神です。その方が私たちのところに来られました。ですから、誰でもイエス・キリストを信じるなら、イエス・キリストに出会うなら、神を経験するようになるのです。神に出会えるのです。神の子どもになれるのです。 皆さんの中で、まだイエスを信じておらず、教会に通っていない人でも、神の存在自体を否定してはいないと思います。ではなぜ神を信じていないのですか。教会になぜ通わないのですかと質問してみると、神を信じていないわけではないのです。また、教会が嫌だから行かないとか、イエスを信じている人々が気に入らないから行かないというのでもないのです。そのように、神を否定する人はいません。 もし皆さんが、人間が作った神や、様々な種類の神々ではなく、まことの神に出会うことができれば、皆さんの人生は変わるでしょう。皆さんの人生が祝福されるでしょう。私は皆さんにまことの神を紹介したいと思います。
人生において失われた三つのもの 人の人生には失われたものが三つあります。目的、方向、意味です。私たちは存在しています。しかし、なぜ生きているのか。何をしているのか。死んだらどこに行くのか。わからないまま私たちは生きているのです。皆さんはなぜ生きていますか。何のために生きるのですか。このように70年、80年生きたらどこに行くのですか。答えがありません。だから迷うのです。道を失った人はさ迷うようになります。現代人の特徴は、道を失ってしまったことです。道ではない道を歩いているのです。これが道だと思って歩いていました。ところが、それは途切れた道でした。絶壁です。ですから、さ迷い続けるしかないのです。 結婚も順調にしました。素晴らしい職場も得ました。人生は成功したように思います。しかし、寂しいのです。死にたいという思いが襲ってきます。生きることに恐れを抱きます。道がないから、そうなのです。なぜ現代人は自殺するのでしょう。なぜ自殺願望を持つのでしょう。お金もあり、若さもあり、情熱もあるのに、なぜ自殺するのでしょう。道が失われたからなのです。 人生において失われたものの二つ目は、真理です。真理をほかの言葉でいうなら光です。光を失った人生は真っ暗な闇です。人前ではいつも笑っていて、それなりに立派な人を装っていますが、その内面には絶望が満ちてます。挫折があります。恐れがあります。怖くておびえています。 私たちは電気を引いて生きています。しかし、それは本当の光ではありません。人間のたましいは暗闇です。悪魔の声が聞こえ、死の声が聞こえます。夜ごとに涙が流れます。寂しくて人にしがみつきます。そして人から裏切られます。なぜですか。真理がないからです。私たちの心の中にあるものは偽りです。私たちは偽りを言いながら生きています。私たちの中には不義があり、暗闇があります。私たちの中には、悪魔の声があります。人間の特徴は、不安な存在だということです。平安を望んでいますが、平安がありません。休みたくても、安息がありません。 人生において失われたものの三つめはいのちです。生きていて、呼吸もしますが、死んでいるのです。私たちは生存していますが、目を見れば、光がありません。死につつあるのです。 人の一生は生け花のようです。華麗ですが根が断たれています。その花は美しいのですが、幾日ももたずにしおれてしまうのです。そのような、生け花のような人生があり、造花のような人生があります。花は花ですが、香りのない花であり、蝶も飛び交わず、実を結ばないのが造花です。それが皆さんの姿ではないでしょうか。化粧もします。髪型にも気を遣います。とても素敵な服を着ています。しかし、私たちは死に向かっているのです。いのちがないからです。
回復の約束 私たちの人生は三つのものを失いました。人生の目的の道を失いました。真理を失いました。暗闇です。いのちを失いました。そのような人間の希望は自殺しかありません。すべてを終わらせてしまうことです。人を殺すか自分が死ぬか。怒りによって人を殺すか自分を殺すか。まるで死が私たちの人生の主題歌のようではないでしょうか。癌にかかれば、不治の病にかかれば、死の影に捕われます。イエスは語られました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハ 14:1)。また、ヨハネによる福音書14章6節を見ると、イエスはこのように語られました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 この地球上に存在する人の中で、わたしは道であり、真理であり、いのちであると語った方は、イエス・キリストしかいません。イエスが、様々な道の中のひとつなのではなく、道のすべてなのです。イエスは、真理の中のひとつではありません。イエス自らが真理なのです。イエスはいのちの中のひとつではないのです。まさにその方がいのちなのです。道は神に向かって行く道です。 これ以上さ迷わないようにお願いします。今まではイエスを知らないままで生きてきました。友人がイエスについて話してくれたかもしれません。聖書をくれたかも知れません。それでも、今までは拒絶してきました。拒んできました。今、皆さんが、イエスを受け入れられるように願いします。決心が必要です。その決心に従って、皆さんの人生は変わるのです。今、皆さんは道を発見しました。イエスがその道なのです。 ソウルに住む人は一度漢江を泳いで渡ってみたいと思うものです。私はイギリスで3年暮らしました。イギリスに住む人々はドーバー海峡を泳いで渡りたがります。時々、オリンピック選手たちが、ドーバー海峡を渡ったり、漢江を渡ったり、玄界灘を渡ったりしますね。しかし、彼らがどれだけ水泳が上手でも、できないことがあります。日本からアメリカまで太平洋を泳いで渡ることはできません。アメリカに行くにはどうしなければなりませんか。謙遜に船に乗らなければなりません。謙遜に飛行機に乗らなければなりません。水泳がちょっと得意だからといって、玄界灘を渡り、ドーバー海峡を渡り、漢江を渡ろうとすることは、宗教です。この世にはとても立派な人々がいます。卓越した優秀な人々がいます。偉大な人々がいます。その人々が宗教を作ったのです。その人々は普通の人々よりも優れた人々です。 しかし、明らかなことは、仏教やイスラム教といった宗教を作ったその人々の行う努力や、その人々ができることは、玄界灘を渡る程度のことに過ぎないということです。アメリカに行こうとすれば、自分の力で渡ることはできません。自分の意志で渡ることはできません。自分の努力で、自分の善行で渡ることはできません。救われることは、天国に行く道は、善良だから行けるのではないのです。皆さんが永遠の平安を味わい、救われるためには、私たちを創造され、救われた主に出会わなければなりません。偽者ではなく、私が作った神ではなく、真の神に出会われますように。 では、どのように神に出会うことができますか。イエスは正解(答え)を与えてくださいました。わたしが道であると。神に出会う唯一の道が、イエス・キリストであると。皆さん、道さえ発見すれば、神に出会うことができますか。それでは足りません。真っ暗な道では困ります。その道を歩むためには光がなくてはいけません。いくら道が良くても光がなければ、その道を進んでいくことができません。道には光が必要です。明るい光が必要です。それが真理です。恐れないでください。イエスがご自分を真理だと語られました。イエスは道であり真理です。 イエスに出会えば光を見出します。皆さん、自分を見てください。暗くないですか。罪がありませんか。すべて隠して生きているだけで、実は不義がありませんか。それが人です。人々は皆、罪を隠して生きています。罪が露にされるのを恐れているのです。この世には表に現われている罪があり、隠されている罪があります。現われている罪を犯した人間は、刑務所に入ります。現われていない罪を犯した人はどこにいますか。ここに座っています。現われていないだけで、罪があるのです。 私たちの中には暗闇があります。私たちの中には絶望があります。自殺を願います。なぜですか。光がないからです。どれだけ勉強をしても、宗教を持っていても、哲学書を読んでも、善行をしても不安です。なぜですか。暗闇が私たちの心の中にあるからです。 しかし、イエスは語られました。「わたしが真理です。」イエスを信じるならば、内面にあかりが灯ります。明るくなります。暗やみが消え去ります。罪が消え去ります。私の心から良心の葛藤が消え去り始めます。 では、道があり、光があればそれで全部ですか。そうではありません。いのちが必要です。その明るい道を走っていけるいのちが必要です。イエスはご自分がいのちだと語られました。救いの三拍子がぴったりとそろいました。道があり、光があり、いのちがあるのです。その方がイエス・キリストです。 人間の理性には限界があります。人間の理性によって救われるのではありません。救いは神のくださる恵みに応えようとする、信仰によってなされるものです。皆さんは想像によってごはんを食べるわけではありません。おなかがすいているのに、想像するだけでおなかがいっぱいになりますか。実際にごはんを食べなくてはなりません。それと同じです。想像したからといって救われるのではありません。研究したからといって救われるのではありません。イエスを信じなければならないのです。イエスを信じることを決心してください。
約束を信じることで では、どのように信じることができますか。聖書をまともに読んだこともないのに、今まで教会にも通っていなかったのに、酒を飲んでいるのに、たばこを吸っているのに、罪をたくさん犯したのに、そんな私がどうやってイエスを信じることができますか。心配しないでください。たった一言でよいのです。 「神様、私にはあなたが必要です。」 私は皆さんが人生の目的を再び見出されることを願います。皆さんの中にある暗闇の世界を投げ打ち、光の世界へと出て来られることを願います。死を投げ打ち、いのちへと出て来られることを願います。そうしたいと思われませんか。 今まで皆さんの人生の主人は自分でした。自分の思う通りに人生を生きてきました。そのため寂しさを感じてきました。恐れてきました。不安でした。絶望していました。時には自殺したいと思いました。夫婦の間に葛藤があります。子どもたちとも葛藤があります。友人たちとも葛藤があります。私はこの問題を自ら解決することができません。私はどこから来て、何をし、どこに行く存在なのか、すべて忘れてしまいました。人生の目的が知りたいです。もう休みたいです。神を知りたいです。そのような方は胸に手をおいてください。そして、私がささげる祈りに従って祈ってみてください。 「父なる神様。これまで私は、私の思い通りに生きてきました。神様のいない人生を生きてきました。目的もなく生きてきました。暗闇の中で生きてきました。絶望と挫折の中で生きてきました。今、新しく生きることを願います。光を見たいです。いのちを見たいです。私の罪を振り払いたいです。神様の前に出ます。私を受け入れてください。私の罪を赦してください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。」 もし皆さんがこの祈りをささげられたなら、もう神が、皆さんの心の中に入って来られています。神は目には見えません。しかし、すでに皆さんの心は、“神様”という名を呼んだ瞬間に、温かさを感じているはずです。そのような祝福があることを願っています。
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