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日本キリスト教の足跡を追って①
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異教文化の中に咲いた花 |
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異教文化の中に咲いた花 東京基督神学校校長 ● 山口陽一
「日本のキリスト教はアメリカのそれよりも歴史が長い」と言ったら驚かれるでしょうか。実はそうなのです。清教徒がメイフラワー号でアメリカ大陸に移住したのが1620年。日本ではキリシタンの最盛期を過ぎ、1614年から徳川幕府による弾圧が始まっていました。それ以前の60年ほどの布教で生まれた信徒は37万人(五野井隆史)で、当時の推定人口1200万人±200万人の3%を占めていました。しかも、長崎を中心に西九州の大村・有馬領はキリシタン国であり、大友氏の大分、高山右近の旧領であった大阪の高槻などにも高い比率でキリスト教徒がいました。 アメリカでは、移民したキリスト教徒がネイティブの人々を追い払い、キリスト教国を建国します。これに対し日本にキリスト教の移民はありません。回心した異教徒が異教文化の中でキリスト教を受容したのです。ここに日本のキリスト教の特長があります。 「日本および中国のような特殊な発達した宗教・文化圏への布教は、他に例を見ないところなのであり、神道という強い民族信仰、仏教という異質な哲学、儒教という封建的価値体系をもつ宗教ないしは世界観が存在し、しかもそれが共存するという特殊な社会と、キリスト教ないしはヨーロッパ的思想・文化との接触という意味において、世界に例を見ない事例である」(海老沢有道)と言われる通りです。 写真は、1930年に大阪府茨木市山間部の民家の屋根裏から発見された「マリヤ十五玄義図」の一部です。禁教前後の時期に日本で描かれ、250年の弾圧を潜り抜けた聖画のマリヤが指で摘むのは、白バラではなく白椿です。ヨーロッパ伝来のキリスト教が日本文化の中で咲かせた花と言えるでしょう。それでは、この秀逸な信仰の証に象徴されるキリシタン信仰開花の歴史を見てまいりましょう。 1. フランシスコ・ザビエル 1549年8月15日、ザビエル一行は鹿児島に上陸しました。しかし、それ以前からキリスト教徒が日本に来ていたことはあまり知られていません。実は、1543年の鉄砲伝来以来、ポルトガル商人たちが大分、鹿児島に来ていたのです。ある罪を犯したアンヘロと呼ばれる日本人がポルトガル商人ジョルジェ・アルヴェレスの船で出国し、マラッカでザビエルに引き合わされます。彼と二人の従者はポルトガル語を習い、インドのゴアで信仰を学び、水先案内人となってザビエルを日本に連れてきます。偉人ザビエルが一人で布教したのではありません。イエズス会の同志、友人である商人、案内する日本人がいてはじめてなし得た偉業でした。 当時の布教は教皇からポルトガル国王に委ねられた布教保護権によって行われ、総督代理として商船の最高指揮官を務めるカピタン・モールによって守られていました。とはいえ、立身出世と家の再興のためにパリに学んだバスク人の宰相の息子ザビエルを回心させたイグナティウス・ロヨラ。同僚の不都合により急遽アジア行きを命じられるや、即決、二度と戻らない旅に出たザビエル。神は、彼らの信仰からすべてを始められたのです。 ザビエルの日本滞在は2年3ヶ月。鹿児島、平戸、山口を経て京に上りますが、戦国の世に荒廃した京都ではなく、大内氏の山口、大友氏の豊後(大分)で布教がなされました。この間の入信者は700人ほどでしたが、日本布教の門は開かれました! 日本布教におけるザビエルの業績は数多くありますが、あえて一つを上げるとすれば、日本人を尊敬しようとしたということです。これは植民地獲得時代にあってあたり前のことではありません。 2. 南蛮文化と信仰 時代はキリスト教布教の好機でした。「大航海時代」は、商船に宣教師を乗せてアジアへと送り出し、カトリック改革の旗手たるイエズス会は殉教精神みなぎる若者を日本に送りこんだのです。九州の諸大名は南蛮船の招致競争を繰り広げ、仲介者としての宣教師を歓迎しました。拒絶する大名もあれば受容する大名もある、それが戦国の世でした。医学、地理学、天文学など最先端の科学的知識は、当時の知識人を魅了し、南蛮文化は当代の伊達を気取る者たちを惹きつけ、ロザリオやメダイを身につけることが流行します。織田・豊臣政権は、天皇や仏教勢力などの旧体制を滅ぼし従える過程でキリスト教を利用しました。政治、経済、科学、芸術、ファッション、すべてが布教を応援したのです。少々羨ましくもあります。 ところで、いくら好機でも福音がなければ話になりません。当初、ザビエルは「大日」という名前で神を伝えましたが、やがてその誤りに気づき、大日ではなくデウスを信ぜよと語りました。やがて出版される『ドチリナ・キリシタン』(キリシタンの教理)は教えます。 「御あるじデウスはパアテレ(父)と、ヒイリヨ(子)と、スピリツサント(聖霊)と申し奉りて、ペルサウナ(位格)は三つにてましませども、ススタンシアと申す御正体は、ただ御一体にてまします也」 天地創造のデウス、不滅の魂、十字架の恩寵、それに基づく後生の助かりは、日本人が目を丸くして聞く福音でした。信徒たちは「慈悲の所作」を行なうためにミゼリコルヂアと呼ばれる信徒組織に加わり、飢えや裸、病人や囚われ人を助け、貧民にも懇ろな葬式を行ないました。 領主の入信に伴う集団改宗もありました。八幡大菩薩より強力な軍神の加護を期待した武将も、ご利益を求めた人々もいました。しかし、そこに本物の信仰者も生まれていたことを私は疑いません。
3. パアデレとキリシタン 1549年から1643年まで、つまりザビエルから鎖国完成までに日本およびマニラ、マカオで日本布教に従事した宣教師は、五野井隆史氏の綿密な調査によると301人です。内訳はパアデレ(司祭)が231人、イルマン(修道士)が70人です。これに日本人司祭40人、修道士109人を加え、計450人です。100年近い期間のことですから、決して多い人数とは言えません。これを補ったのが同宿、小者、看坊という日本人の協力者であり、信徒たちの奉仕でした。 まず宣教師たちですが、ザビエルが蒔いた種を丹精込めて育てたのはトルレスです。彼は1570年まで布教長を務め日本文化適応を継承しました。次の布教長カブラルは適応に欠けたもののキリシタン大名を生み出すのに貢献しました。カブラルの方針を改めて日本布教の方針を確立したのが巡察師のヴァリニャーノでした。セミナリヨ(中等教育機関)から、ノビシャド(修練院)を経て修道士・司祭養成のコレジヨ(大学)に至る学校を設けて日本人の教職養成に努め、「都、豊後、下(豊後以外の九州)」と布教区を定め、布教報告書のスタイルを整えるなどの行政手腕を発揮しました。有名な天正の遣欧使節にグーテンベルグ式の印刷技術を習得させたことも見逃せません。バテレン追放令以降、宣教師の活動が制限される中、キリシタン版として出版された信仰書は大いに用いられました。他にもアルメイダの医療、日本におけるイエズス会の歴史(『日本史』)を記したフロイス、南蛮貿易に手腕を振るった通事ロドリゲス、京の人々に慕われたオルガンティーノ、魅力的な宣教師たちが大活躍しました。 日本人としては、初期の布教に貢献した隻眼の琵琶法師イルマン・ロレンソがいます。彼は高山ダリヨ・右近の親子を信仰に導き、高山右近は、牧村政治・蒲生氏郷・瀬田左馬丞・黒田孝高ら千利休の高弟たちを導きます。茶道における数寄は、キリシタンの倫理と隠遁において大きな助けとなりました。彼らの罪を赦し給えと祈った二十六聖人の一人三木パウロ、1612年まで司祭として波乱万丈の生涯を全うした天正使節の伊藤マンショ、1614年の追放後にローマで司祭となり東北での潜伏活動の後に殉教した岐部ペドロ。こちらも語り出したらきりがありません。 そして、忘れてならないのは信徒たちの働きです。コンフラリアと呼ばれる信心会(組・講)で互いの信仰を励まし合い、ミゼリコルヂア(慈悲の組)では、先述の活動がなされました。戦乱の世の中にパライゾ(天国)を思わせる愛の業は、異教文化の中に咲いた花です。
「マリヤ十五玄義図」京都大学所蔵 「ザビエル像」神戸市立博物館蔵
山口陽一 1958年群馬県に4代目のクリスチャンとして生まれる。金沢大学、東京基督神学校、立教大学に学ぶ。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会、日本基督教団吾妻教会牧師を経て、現在東京基督神学校校長、日本同盟基督教団市川福音キリスト教会牧師。
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