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マタイの福音書の恵み 161
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復活のイエスに会いましょう |
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マタイの福音書の恵み 161
復活のイエスに会いましょう [ マタイの福音書28章1~7節 ]
祭司長やパリサイ人たちは、イエス様の墓の石に封印をし、番兵たちに番をさせました。イエス様の亡骸には、だれも触ることができなくなりました。それから3日目の安息日の翌日の明け方、とてつもないことが起こりました。イエス様が復活されるところを見た人はいませんでしたが、人々は復活されたイエス様に会ったのです。
空の墓を見た女たち 「さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」(マタ 28:1)。 復活されたイエス様を最初に目撃したのは、イエス様を愛していた女たちでした。しかし、彼女たちはイエス様の復活を信じていたのではなく、ただ人間的にイエス様を愛していただけでした。 律法では、安息日には多くの行動が禁じられていました。それで女たちは安息日が終わるまで待ち、安息日が終わるや否や、太陽が昇る前の明け方に、愛する主が納められていた墓に走って行きました。墓に着いたとき、彼女たちの目の前で、想像を超える驚くべきことが起こりました。 「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった」(マタ 28:2~4)。 彼女たちが目にしたのは、姿は稲妻のようで、衣が雪のように白い「主の使い」でした。大きな地震が起こったかと思うと、天から主の使いが降りて来て、重い石をわきに転がし、その上に座るのを見たのです。その様子を見た墓の番兵たちは、恐ろしさのあまり死人のようになりました。 イエス様が納められていた墓は、空になっていました。復活を信じていなかった女たちにとって、どれほど衝撃的なことだったでしょう。まだ彼女たちはイエス様が復活したとは信じられず、だれかが来て盗んでいったのだと考えました。
恐れることはありません 「御使いは女たちに言った。『あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい』」(マタ 28:5~6)。 不安で恐れていた女たちに、御使いは3つの驚くべきメッセージを伝えました。1つ目のメッセージは、「恐れることはありません」です。女たちは、どうして恐れていたのでしょうか。それは、復活信仰がなかったからです。 教会に来ても十字架の意味を正しく悟れない人は、自分の罪が赦されていることを疑い、いつも罪責感や葛藤の中で、良心の自由を味わうことができないまま生きています。「私が教会に熱心に通えば、献金をたくさんすれば、伝道をたくさんすれば、神様がもっと赦してくれるだろうか」と考えます。主のみこころに従って、もっとがんばらなければ、自分の罪は赦されないと考えるのです。 私たちの行いとは関係なく、私たちのすべての罪はすでに赦されています。しかし、復活信仰がない人は、自分の罪が赦されていると考えながらも不安です。未来が不安です。「イエス様は生きておられるのだろうか。今、ここにおられるだろうか」と疑います。女たちは、イエス様の亡骸を捜しましたが、復活されたイエス様は捜しませんでした。不安の原因がここにあります。教会に来ていながらも、信仰生活を送りながらも、復活されたイエス様に出会っていない人たちは、教理にうもれ、伝統にうもれ、形式にうもれて、形だけの信仰生活をしているのです。
よみがえられたのです 2つ目のメッセージは何でしょうか。 「『ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい』」(マタ 28:6)。 イエス様の亡骸がなくなっていたのは、よみがえられたからです。イエス様が生前に預言された通り、3日目に復活されたのです。 マルコの福音書には、御使いが「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です」と言ったとあります(マコ 16:6)。イエス様のからだが納められていた場所には、すでにイエス様の亡骸はありませんでした。生きておられる神様が、イエス様をよみがえらされたのです。 イエス様は約束された通りよみがえられ、御使いたちがこの喜びの知らせを女たちに伝えました。「イエス様はよみがえられたのです!」 よみがえられたということは、2千年前のその時だけイエス様が生きておられたという意味ではなく、2千年が過ぎた今も生きておられるという意味です。それが、よみがえられたということの意味です。 空の墓を目撃した女たちは、自分の耳を疑い、目の前で起きていることを信じることができなかったでしょう。実際、復活の出来事は、簡単に信じられることではありません。信じられるようになるまで、時間がかかります。聖書を読み、祈り、疑っては信じることを繰り返しながら、時間が経っていくと、だんだん確信へと変わっていくのです。 ところで、復活の出来事が弟子たちに働く決定的な時が来ます。五旬節の日です。五旬節の日に聖霊が臨んだとき、十字架の出来事と復活の出来事が弟子たちの心の中で完全につながったのです。その時から弟子たちは死を恐れなくなり、成功や名誉が重要ではなくなり、キリストの証人となりました。これが初代教会です。
復活されたイエスに会いなさい ヨハネの福音書には、ほかの福音書にはない独特な記事があります。 「彼らはマリアに言った。『女の方、なぜ泣いているのですか。』彼女は言った。『だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。』彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった」(ヨハ 20:13~14)。 女たちはイエス様を愛していたので、夜明け前にイエス様の墓に行きました。しかし、すぐそばにイエス様がおられるのを見ても、イエス様であることに気がつかなかったのです。彼女たちはイエス様の亡骸だけに関心があり、復活されたイエス様には関心がありませんでした。それは、私たちの信仰の姿と同じです。私たちも信仰生活をしながら、イエス様の亡骸にだけすがっているかもしれません。だから、奇跡も御力も祝福も経験できないのです。形式的な信仰を捨てなければなりません。復活されたイエス様に出会わなければなりません。イエス様は私たちを愛し、赦し、慰め、祝福してくださる方で、私たちのすぐそばにおられます。
行って伝えなさい では3つ目のメッセージは何でしょうか。 「『そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。「イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます」と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました』」(マタ 28:7)。 復活の出来事を経験した女たちに与えられた3つ目のメッセージは、「行きなさい」でした。「もはやこの墓にいてはならない」というのです。私たちは墓から去らなければなりません。墓にはイエス様がおられないからです。それなのに、最近のキリスト教はイエス様のいない墓を守っています。ただ教会の建物を守っているのです。教派を守って座っています。人間が作り出した宗教的な制度の中にとどまろうとしています。これは、復活の宗教ではありません。 復活に対する信仰のない人は、墓を去ることができません。家族や仕事や人間関係に縛られているからです。アブラハムは神様の御声を聞いて「カルデヤのウルという故郷と親族と父」から離れ去りました。アブラハムには復活信仰がありました。ヘブル人への手紙でそのことを確認することができます。アブラハムには復活信仰があったので、イサクをいけにえとして献げることができました。 復活信仰のない人は、現実生活に安住しようとします。犠牲を払おうとしません。献身は、復活信仰がある人だけができることです。口では復活を信じると言いながらも、心の中には復活信仰がないため、献身することも、イエス様を信じることもできないのです。罪責感を感じるのも、イエス様の血潮の力を信じていないからです。 イエス様の御名により、血潮の力により、私たちの罪責感がすべてなくなることを願います。キリストが復活されたことを、口で告白するだけでなく、本当に信じるようになることを願います。復活を信じれば、「行って伝えなさい」というメッセージを受けます。イエス様が復活されたことを学校や職場に行って伝え、福音を聞いたことのない人々のところに行って伝えなければなりません。
祈り 天のお父様、復活されたイエス様に出会わせてくださり感謝します。イエス様を心で信じ、御声を直接聞き、その力を直接体験させてください。イエス様を信じると言いながらも、いつも不安で恐れがあることを告白します。私たちのうちに揺るぎない復活信仰が与えられ、復活の主を世に広く伝えられるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
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