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マタイの福音書の恵み 160
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日々、十字架の人生を生きましょう |
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マタイの福音書の恵み 160
日々、十字架の人生を生きましょう [ マタイの福音書27章57~66節 ]
ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師
イエス様の弟子アリマタヤのヨセフ 「夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた」(マタ 27:57~58)。 イエス様が十字架で死なれると、それまで隠れていた一人の人が現れました。それは、イエス様を墓に葬ったアリマタヤのヨセフです。彼は有力な議員で、神の国を待ち望んでいました(マコ 15:43)。また「善良で正しい人」でした(ルカ 23:50)。興味深いことに、ルカは、彼がイエス様の死刑に「同意していなかった」と記しています(ルカ 23:51)。 有力な議員とは、裁判をすることができる公的な立場にあったということです。彼は財力も権力もあり、尊敬されている人でした。当時、高位公職についている人は、イエス様を信じることが難しい立場にありました。彼らは、日々重要な決定を下さなければなりませんでしたが、自分の地位を守るために自分の望まない決定を強いられることもありました。彼らの決定は組織や社会や歴史に大きな影響を及ぼすため、普通の人とは違う苦しみや悩みが多かったことでしょう。ところが、アリマタヤのヨセフは、ほかの議員たちがイエス様を殺そうとしたとき、死刑に反対した唯一の議員でした。 また、マタイによると、彼は金持ちでした。金持ちがイエス様を信じることは簡単ではありません。なぜなら、神様よりもお金のほうを貴く思うからです。しかし、彼は「イエスの弟子」になっていました。イエス様を愛し、従い、慕い求めて、「イエスの弟子」だと自覚していました。
アリマタヤのヨセフの偉大な信仰 彼は、三つの点で実に偉大な信仰を持っていました。第一に、強い世論と政治的な圧力があったにもかかわらず、イエス様の死刑に反対しました(ルカ 23:51)。 第二に、身分が脅かされるおそれがありましたが、イエス様を葬るために先頭を切って行動しました。アリマタヤのヨセフは、決定的な時、必要な時に、自分の身分を明らかにし、いのちの危険をも顧みず、イエス様のからだの下げ渡しを願い出たのです。 第三に、彼は金持ちでしたが、お金の奴隷になりませんでした。「ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った」(マタ 27:59~60)とあります。彼は自分のための新しい墓を持っていましたが、その新しい墓を喜んでイエス様に献げました。埋葬には、お金がたくさん必要でした。からだを亜麻布で包まなければならず、香油を塗らなければなりませんでした。そのすべての費用を自ら負担したのです。 彼は、十字架の意味を知っていたわけではありませんでした。ただ単に、イエス様に対する忠誠心と献身があっただけです。それが信仰です。だれも見ていないときにイエス様のからだを葬る信仰は、驚くべきものです。
墓の方を向いて座っていた女たち 十字架の周りには、女たちもいました。 「マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた」(マタ 27:61)。 アリマタヤのヨセフは、イエス様を墓に葬った後、そこを去りました。ところが、墓から離れず、その方を向いて座っている女たちがいました。彼女たちは、明らかに十字架の出来事の前からイエス様に従っていました。イエス様が十字架につけられた時も、十字架で息を引き取られる時も、ずっとイエス様の近くにいました。「墓の方を向いて座っていた」という表現から、弟子たちもアリマタヤのヨセフもみな去った後、愛するイエス様を忘れることができず、墓の前に座っている2人の女の心を察することができます。 もちろん、彼女たちも十字架の奥義をすべて知っていたわけではありません。イエス様が復活されることを信じていたわけでもありません。彼女たちは、ただイエス様を愛していたのです。何の力も奇跡も見せないイエス様の亡骸を見つめている彼女たちの心、それが信仰です。 主との美しい関係 私たちは、働きや奉仕のことで頭がいっぱいです。奉仕こそ主の働きだと考えます。しかし、奉仕よりも重要なのは、礼拝であり、関係です。皆さんは、主を愛しているから働きますか。働くために主を愛しますか。 この女たちから、私たちは美しい信仰を見出します。彼女たちは、何か理由があって墓の前にいたわけではありません。イエス様を愛していたので、イエス様にたくさん借りがあるので、イエス様の亡骸に向かってただ涙を流しながら、たましいが抜けたように座っていたのです。これが信仰です。これが愛情であり、献身です。問題は、私たちにこのような感動がないことです。いつも働きそのものが中心です。そこにどんな愛がありますか。働きがあっても、主と自分との密かな感動に満ちた関係は抜けているのです。 イエス様が生きておられた時も愛し、死なれた時も愛し、自分が病んだ時も愛し、健やかな時も愛しますか。私たちの病を癒やし、仕事を成功させてくださったときだけイエス様を愛するなら、信仰とは言えません。アウグスティヌスは意味深いことばを残しました。「私たちが主のために何もできないとしても、この女たちのように主を見上げることさえできれば、それが祝福です」 神様は、イエス様の亡骸を見守っていただけで、復活を期待もしていなかったこの女たちに、復活の最初の証人になる祝福を与えられました。私たちも、このように密かで素朴で美しい信仰の所有者にならなければなりません。大きな働きの責任を担うのは、その次です。主との美しい関係を先に築かなければなりません。
復活を恐れる悪者たち 十字架の前にいた人々の中には、祭司長たちとパリサイ人たちもいました。 「明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。『閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、「わたしは三日後によみがえる」と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、「死人の中からよみがえった」と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります』」(マタ 27:62~64)。 彼らはイエス様の復活に神経をとがらせていました。イエス様の復活に神経を使い、そのようなことが起こるかもしれないと不安になり、夜も眠れませんでした。それが、イエス様を殺そうとしていた人たちの姿でした。実に驚くべき逆説です。 彼らはイエス様の復活に対して神経を使い、ピラトのもとに行ってイエス様の墓に対する特別な警備を頼んだのです。彼らは「閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました」と言いました。弟子たちはイエス様のことばを全く覚えていなかったのに、彼らは覚えていたのです。 では、なぜ彼らはピラトのもとに行ったのでしょうか。理由は簡単です。不安だったからです。彼らには、迷信的な不安がありました。病的な恐怖心がありました。彼らは、願った通りにイエス様が死んだのに、心に平安がありませんでした。これが悪者の姿です。 「ピラトは彼らに言った。『番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい』」(マタ 27:65)。 ピラトは妙な返事をしています。どのように理解すべきでしょうか。本当にピラトがイエス様の復活を信じていたから、そのように言ったのでしょうか。それとも、「私はこれ以上、イエスの問題には関わりたくない」と思い、傍観者的な態度でそう言ったのでしょうか。いずれにせよ、ピラトは不正な判決の言い渡しをした張本人でした。有罪を免れることはできません。
墓におられたイエス・キリスト 「そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした」(マタ 27:66)。 彼らは、だれもイエス様のからだを盗んで行けないように墓の石に封印をし、番兵たちとともに墓の番をしました。そして、安息日を待ちました。 イエス様のからだは、墓に閉じ込められていました。十字架で死なれたイエス様は、これから三つの姿で現れられます。一つ目は、死んで墓に葬られて安息しておられる姿です。しかし、その安息は永遠ではありません。二つ目は、復活された姿です。復活されたイエス様は、宇宙を統治し、この世をさばいておられます。そして、三つ目は、統治者としての姿です。 イエス様は墓におられました。しかし、墓に閉じ込められてはいませんでした。3日間安息されたイエス様は、まもなく復活されたのです。
祈り 父なる神様、私たちは十字架の周りにいた人々を見ました。十字架で死なれたイエス様は、真っ暗な闇の中に閉じ込められていましたが、すべての絶望を打ち破り、3日目によみがえられました。私たちに、復活に対する信仰と祝福と栄光をお与えください。死ぬとしても主のために死に、生きるとしても主のために、栄光を受けても主のために、辱められても主のために生きる私たちになることができるようにしてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
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