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マタイの福音書の恵み 158
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十字架は敗北ではなく勝利です[ マタイの福音書27章32~44節 ] |
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マタイの福音書の恵み 158
十字架は敗北ではなく勝利です[ マタイの福音書27章32~44節 ] ハ・ヨンジョ オンヌリ教会 前主任牧師
十字架につけられる苦しみ イエス・キリストは、ゴルゴダの丘まで歩いて行かれました。イエス様は「どくろの場所」という意味のゴルゴダと呼ばれる場所で十字架刑を受けられることになりました(マタ 27:33)。ゴルゴダは、最ものろわれた場所、どくろが埋められ、どくろのような地形をした場所でした。 「彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった」(マタ 27:34)。 イエス様は人々が与えた苦みを混ぜたぶどう酒をなめられました。苦みを混ぜたぶどう酒は、死刑囚の苦痛を和らげるための麻酔薬のようなものでした。これは「彼らは私の食べ物の代わりに / 毒を与え / 私が渇いたときには酢を飲ませました」(詩 69:21)という詩篇のことばの成就です。しかし、イエス様は全人類のすべての罪と苦痛を担うために、この苦みを混ぜたぶどう酒さえもお飲みになりませんでした。人類が受けるべきすべての苦しみを全身で受けられたのです。 「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた」(マタ 27:35)。 イエス様が十字架につけられたことが一言で記されていますが、この短い一言には、非常に多くの出来事と意味が含まれています。十字架刑は、当時、ローマだけでなく、古代アフリカ、エジプト、ペルシア、ギリシアなどで行われていた刑罰でした。あまりにも残忍で恥辱的なので、ふつうはローマ市民には用いられず、奴隷や反逆者、極悪な強盗などに用いられました。 受刑者の死体は、縁故者がいる場合、引き渡して墓に埋めさせましたが、縁故者がいない場合や極悪な受刑者の場合は、十字架につけたままにしておき、鳥のエサにしました。イエス様は、十字架に3日間つけられていたのではなく、午前9時に処刑され、午後3時に息を引き取られました。聖書の「イエスを十字架につけた」ということばの前後には、私たちが推測できる苦しみの瞬間と、私たちが想像もできないような瞬間がつながっているのです。
十字架の周りで起こった出来事 イエス様が十字架につけられたとき、その十字架の下や周りで起こった出来事が記されています。 第一に、イエス様が十字架につけられた後、イエス様の衣を人々が分けました(マタ 27:35)。イエス様は、不当な死を遂げられただけでなく、衣まで奪われました。徹底的にすべてのものを奪われたのです。イエス様が身につけておられた衣、下着、帯、履き物の、どれ一つとして残されませんでした。私たちは、人格的に冒瀆され、人権が踏みにじられると、声を上げてわめきたてます。しかし、イエス様は、人権だけでなく所有していたすべての物を奪われました。罪人の服は、兵士たちの合法的な報酬でした。ところが、イエス様の下着は一つながりのものだったので、分けることができず、4人がくじを引いて1人のものになりました(ヨハ 19:23~24)。 第二に、イエス様を十字架につけた者たちはイエス様を見張っていました。 「それから腰を下ろし、そこでイエスを見張っていた」(マタ 27:36)。 人類のために苦難にあわれている罪のないイエス様を見張っているローマ兵たちの無感覚な姿が見られます。神の御子であり、人類の救い主である方を見張っていながらも、全く感動のない人々の姿です。これは、まさに私たちの姿ではないでしょうか。私たちは、日々十字架を見ても感動がありません。賛美を歌うときも無感覚です。ローマ兵たちとなんら変わりありません。 第三に、イエス様の十字架に罪状書きが掲げられました。 「彼らは、『これはユダヤ人の王イエスである』と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた」(マタ 27:37)。 ローマの死刑法によれば、十字架には罪状書きを付けなければなりません。ところが、イエス様には「これはユダヤ人の王イエスである」という訳の分からない罪状書きが付けられました。しかもヨハネの福音書19章20節によれば、それはすべての人に分かるように、ヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていました。これは神様の驚くべきみわざです。嘲るために掲げられた罪状書きでしたが、その方はユダヤ人の王、人類の王、私たちの救い主でした。それも、様々な言語に翻訳されていたのです。ある人はそのことを「これは、ヘブルの宗教とローマの法とギリシアの哲学が、イエス様が神の御子であることを認めたということである」と説明しました。 第四に、イエス様の十字架の横には、驚くべきことに、2人の強盗がいました。 「そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた」(マタ 27:38)。 イエス様は罪のない方でした。しかし、そのような方が、極悪な罪人がつけられる十字架に、2人の強盗と一緒につけられていたのです。実に驚くべきことです。イエス様は、生きておられたとき、取税人、遊女、病人、罪人たちとともにおられましたが、亡くなられる時も強盗たちの間におられました。罪のないイエス様が、極悪な罪人たちとともにおられたのです。これが十字架です。 第五に、周りの人々がイエス様を嘲り、冒瀆する様子が描かれています。 「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。『神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い』」(マタ 27:39~40)。 栄光の神の御子が惨めな姿で十字架につけられ、最も浅はかな人間たちから嘲られました。彼らの嘲りの中には、サタンの陰謀がありました。それは、サタンがイエス様を神殿の屋根の端に立たせて「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい」と誘惑したのと同じ声です。 第六に、祭司長や律法学者、長老たち、いわゆる宗教指導者たちがイエス様を嘲る光景が出てきます。 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(マタ 27:42~43)。 この宗教指導者たちの嘲りと蔑みの裏には、自分たちの陰謀が成し遂げられたことに対する喜びがありました。自分たちのすべての計画が成就したことに対する祝杯を上げているのです。この瞬間こそ、悪人が勝利し、陰謀が成就した時でした。 「イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」(マタ 27:44)。 十字架の周りには、兵士と通りすがりの人々、祭司長と律法学者と長老たち、そして2人の強盗がいました。彼らはみな、イエス様に対して無感覚であるか、嘲る人々でした。
十字架の涙と感動を回復せよ これらの人々の特徴を、2つに要約することができます。1つ目は、彼らは十字架を見ていながらも、十字架を見出すことができなかったということです。まさにそれがサタンの企みです。サタンが私たちに十字架を語ることもあり、十字架を見せることもあります。しかし、サタンは、私たちを十字架の前で無感覚にし、何の意味も感じられないようにするのです。けれども、忘れてはなりません。私たちの最も大きな危機は、十字架の前で無感覚になることです。これほど恐ろしい罪はありません。 2つ目は、彼らは自身の罪と咎を隠すために十字架を呪い、嘲ったということです。ステパノの姿を思い出してください。彼が説教をしたとき、聞いていた人々の心が刺されました。それで、人々はそれ以上聞いていることができず、耳をふさいでステパノに襲いかかって石で打って殺したのです。十字架は、沈黙しません。剣となって私たちの良心を刺し通します。サタンのすべての陰謀をあばくのです。十字架は、すべての悪と闇と呪いをあらわにします。このような十字架の力は、祝福であり恵みです。 これと同じことが強盗の1人に起こりました。マタイの福音書の本文にはありませんが、ルカの福音書を見ると、十字架にかけられていた犯罪人の1人はイエス様をののしりましたが、もう1人はその犯罪人をたしなめて、このように言いました。 「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない」(ルカ 23:40~41)。 これは「私たち犯罪人が十字架で死ぬのは当然だが、この正しい方が、なぜ十字架で死ななければならないのだ」と言っているのです。彼はまた「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」と言いました。私たちは、このように告白した強盗のようにならなければなりません。 イエス様は私たちのために十字架で血を流し、しかも静かに死なれました。神様の御霊によって、私たちの無感覚な心に感動が起こることを願います。十字架の愛が私たちに伝わり、赦しとあわれみと救いが私たちのたましいに満ちることを願います。
祈り 父なる神様、十字架の前で無感覚であった私たちをお赦しください。口では十字架を信じていると言いながら、イエス様のことを蔑んでいた私たちの生き方をお赦しください。涙と感動を失った私たちのたましいをあわれんでください。十字架を見上げて再び感動し、罪を悔い改める謙遜な心へと私たちを変えてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。
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