リュ・ウンリョル ワシントン中央長老教会 主任牧師、ゴードン・コンウェル神学校 客員教授
信仰生活の指針となる書 約300年前に、あるカトリック修道士が記した書があります。ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』です。何度か読んだ本ですが、牧会を始めた後に読んだとき、一つ一つの文章が新しく感じられました。忙しく走り回っていた私の人生に休止符を打つかのように、さらに大きな声で胸に響いてきました。 フランスで生まれたローレンスは、戦争に参戦して負傷し、びっこを引くようになりました。その後、彼は修道会に入り、修道士として過ごしながら、料理や雑用を喜んで行いました。その修道院で生涯「ブラザー・ローレンス」と呼ばれた彼の言葉が今日まで心に響くのは、彼の人生のゆえです。彼が見せてくれた「神の臨在」は、言葉や知識ではなく、真実な心と温かい愛を通して現れました。 「たとえ何もできなかったとしても、私は神を愛する心で床のちり一つでも拾い上げることができるだけで満足だ」 この一言に私は息が止まりそうになりました。「神とともに歩む霊性」とは、空にどよめくほど大掛かりな計画やとてつもない結果を求める人生ではなく、息をするたびに感謝し、神の御前で生きる人生そのものであることを教えられました。私は、真の人生の喜びを、神が与えてくださる健康や子ども、才能、財産のような目に見える賜物からではなく、神ご自身を味わうことから探し始めました。成功第一の時代、信仰においても存在の尊さを喪失し、相対的な価値に人生をかける現実を叱咤する声のように聞こえました。また、非常に大きな働きだけを求めて満足を知らない私自身の姿にも気づかされました。
天の豊かさを味わう臨在の実践 「もし私が説教者だとしたら、私は神の臨在を繰り返し語ること以外には、何も説教しないだろう」と言ったブラザー・ローレンスが味わった天の豊かさは、すべて外形的なものではなく、神の臨在を味わうことから来たものでした。彼は神の臨在を味わうことで、世のすべてのものから自由になりました。神に対する彼の熱望は、人生のある部分に限定されるものではありませんでした。彼は人生全体で神を熱望しました。そんな彼は満ちあふれる天の喜びを経験しました。 「人生における私たちの唯一の務めは、神を喜ばせることだけであることを、いつも思い出しなさい。それ以外の何かが私たちにとって意味があるだろうか」 彼のことばにうなずきながら、私はこのように答えたいと思います。「そのとおりです。神に出会った人は太陽を見た人です。太陽を見た人は地上の華やかな光にも少しも心を奪われません」 「神から来ていないものはすべてあきらめなさい。神は当然そのようなもてなし、いや、それ以上のもてなしを受けるべき方ではないだろうか」 彼のこのことばに、キリスト教の歴史の中で主のために自分の人生を高潔に燃やした神の人々を思い出します。創造主なる神、救い主なるイエスに出会った瞬間、自分がだれであるかがわかり、世と人を見つめる目が変わります。私たちの心臓に主の血潮が流れているなら、自分に与えられた時間、財産、いのちを主のためにすべてささげるとしても、それは犠牲ではなく栄光ある特権です。 いつも感謝し、神の愛にどっぷり浸っていたブラザー・ローレンスを思いつつ、想像の中で彼が普段仕事をしていた台所に行ってみました。神の臨在を味わいながら喜ぶ彼の後ろで、彼を見つめながら静かに微笑んでおられる主の御顔が見えます。池に溜まった水が抜けていく音、名も知らない鳥の歌声、ささやくように顔をすり抜けていく風の音、これらすべての日常の一つ一つが、神の賜物です。彼が台所で火を焚き、焼けていく薪の様子を頭の中に描いていると、聖なる感激が訪れました。神が注がれるあらゆる賜物よりもはるかに尊いのは、神ご自身であり、神の臨在でした。私の内側が神によって満たされているなら、この世が消えても満足と喜びで歌えるからです。どうか私の人生にも主の臨在が続き、また、実際に現れますようにと願います。天から注がれる特別な賜物のためではなく、神お一人だけで私のたましいが満足することを望みます。私は、ブラザー・ローレンスの本ではなく、彼の生きた姿を心に刻むことにしました。 「人生の中で、必ずしも大きなことばかりする必要はない。私は、フライパンの上の小さな卵一つでも、神を愛する気持ちで裏返す。それも終わって、することがなければ、私は床にひれ伏して神を礼拝する。そのようにしてから立ち上がると、私はこの世のどの国の王よりも大きな満足を感じる」
ブラザー・ローレンスの『敬虔な生涯』は、信仰と教会の本質さえ揺らぐこの時代に、私たちがどのように神だけで満足し、神とともに歩むことができるのかを教えてくれる。
「私は神を愛する心で床のちり一つでも 拾い上げることができるだけで満足だ」
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