çµ‚末論 終末論者が現実主義者である理由

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ユ・スンウォン デトロイト韓国人連合長老教会 主任牧師


イエスは現実主義者であり、終末論者でした。イエスはご自分の弟子になるという「霊的なこと」に関して、塔を築くときの費用の計算や、戦いを交えようとするときの戦略分析を通して説明される、現実的な知恵者でした(ルカ 14:25~33)。また、イエスが宣言された「神の国」は、常に人間の歴史の終わりの日を念頭に置いています(マタ 25:1~46)。ご自分をさばこうとする大祭司の前で沈黙されたイエスが、唯一口を開いて明らかにされたのは、終わりの日の勝利でした(マコ 14:62)。そのような面で、新約聖書全体は終末論的です。

確実な現実、個人の終末
人々は、終末について話す人のことを、現実感覚のない理想主義者と見なす傾向があります。「終末」はギリシヤ語エスカトン(e;scaton)から来たもので、「継続することや現象の最後」という意味です。ここから「終末論」(eschatology)という神学用語が出ました。この「終末」(終わり)は、決して理想主義や妄想ではありません。世には不確実でよくわからないことがたくさんあります。しかし、この不確実な世界で最も確実な現実が一つあります。それが終末です。人間は、だれしも個人の終末である死を迎えます。ヘブル人への手紙の著者は、この避けられない人間の現実をこのように述べています。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(ヘブ 9:27)。ですから、個人の終末は最も確実な「現実」なのです。
私たちは一般的に、損得を計る現実主義者です。しかし、本当に現実主義者として生きるなら、人生の計画を立てるとき、必ず個人の終末、つまり、肉体の死について考えなければなりません。イエスのたとえの中で、愚かな金持ちは自分の終わりの日については考えず、この地での現実に縛られて生き、突然、終わりの日を迎えます。彼が自分に「そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ』」(ルカ 12:19)と言って満足した瞬間、いのちの主権者である神は、その計画がいかにむなしいものであるかを一瞬で悟らせます。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ 12:20)。彼が「愚か者」になった理由は、自分が歩む道の終着駅、つまり「終わり(終末)」を心に留めず、一時的な生存だけに没頭したことにあります。最も現実主義者であるかのような彼の人生は、実に非現実的でした。自分が歩む道の終着地がどこであるかを知って現在を生きる人が、真の現実主義者なのです。

個人の終末と歴史の終末
個人の終末である「死」は、実存的レベルで歴史の終末である「世の終わり」と必ずつながっています。「世の終わり」はまだ歴史が経験したことがないため、検証が繰り返される「個人の終末」である死とは違い、すべて信仰に属する領域です。しかし、先に言及したように、聖書はこの「歴史の終末」について明言しています。すべてのことには始まりがあり、終わりがあります。歴史にも始まりがあって、終わりがあるのです。創造主である神は、歴史の始まりと終わりの主権者です。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙 22:13)。聖書は、イエスの再臨とともに、必ず現在の歴史の終末があることを予告しています。
本来「救いの福音」は、その歴史の終末にあるさばきから救われることを意味します。「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです」(Ⅰテサ 1:10)。歴史の終末に、さばき主である神が罪と悪をさばかれますが、イエス・キリストを信じて罪を赦された人々がさばきの対象にならないことが「救い」です。歴史の終末は、私たち全員に必ず個人の終末を経験させます。歴史の終末を信じない人も信じる人も、その歴史の終末を個人の終末として迎えます。それが「実在」です。そのため、聖書は、歴史の終末を個人の終末と同一視します。
イエスがこの地に再び来られる時、この地で生きてイエスを迎える人は、その時がそのまま個人の終末になるでしょう。イエスが来られる前に死んで「眠った人々」は、すでに個人の終末を迎えましたが、眠りから覚めるように千年でも二千年でもその時間を一瞬で飛び越え、歴史の終末に突入します。「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Ⅰテサ 4:15~17)。

終末、そして時間の超越
私たちの認識を混同させる点は、個人の終末と歴史の終末の間に存在する時間的距離です。救われた私たちは、死んだ瞬間、すぐに神の国に入るのでしょうか。それとも、地に埋められて腐って土になって消え、歴史の終末時に目を覚まして神の国に入るのでしょうか。
イエスの再臨時に死者がよみがえり、主を迎えることを力説した使徒パウロは、自分の死に言及する時には「眠り」の代わりに「御国にすぐに入る」と語っています。「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています」(ピリ 1:23)、「むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています」(Ⅱコリ 5:8)。ルカの福音書で、イエスの横で十字架につけられた強盗も、同じ約束を受けました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ 23:43)。つまり、パウロをはじめとする信者たちは、死と同時に主のもとに行き、主とともにいることを信じていたのです。
主にあって死んだ者たちについて「眠る」と言い、イエスの再臨の時まで眠っていると表現している聖書箇所(Ⅰコリ 15:51~53、Ⅰテサ 4:14~17)と、パウロのこのような考えは、一見、つじつまが合っていないように思えるかもしれません。しかし、これは時間と空間を超えた超歴史的世界が持つ、神秘の領域として理解するべきです。たましいとしての人間が死に、物理的限界に縛られているこの世を離れるとき、時間と空間の制限からも脱すると考えるべきなのです。
聖書で頻繁に語られている「永遠」の概念を、「退屈に続く終わりのない時間」と理解すべきではありません。「永遠」とは、人間の認識と存在の限界である時空を超越した状態を指すものです。そこでは、私たちの概念での時間の長さは意味がありません。これについてペテロは、次のように理解しています。
「主の御前では、一年は千年のようであり、千年は一日のようです」(Ⅱペテ 3:8)。つまり、パウロのように、イエスの再臨前に死んだ者たちの死亡時点と、再臨の終末時点の間の二千年以上の時間は、時空を超越する永遠の中では何の問題にもなりません。人間の限られた概念を超えたものなのです。

クリスチャンの死、眠ること、主と共にいること
クリスチャンは、死ぬとすぐにイエスの再臨時点に飛び越えます。死んだ瞬間、時間を超えるからです。つまりクリスチャンは、死ぬとすぐに再臨の時の復活を経験し、再臨の主とともに永遠の中で生きるのです。「パラダイス」は、このような主の降臨とともに成し遂げられる主と私たちが共に生きる場であり、実在です。つまり、死者がパラダイスで主とともにいること(Ⅱコリ 5:8)と、死者が変えられたかたちでよみがえり(Ⅰコリ 15:51~53)、主を迎えて永遠にいること(Ⅰテサ 4:16~17)は、同じ出来事を異なる方法で表現したみことばなのです。
クリスチャンにとっては、死を通過した個人の終末と、生きて再臨を迎える歴史の終末の間には、何の違いもありません。時間の違いがあるだけで、肉体を抜けた瞬間、時間の意味は消えるため、それもまた事実上存在しません。それで、使徒パウロは神秘的な告白をしています。「生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません」(Ⅰテサ 4:15)。イエスがマルタに語られたみことばも、このような論理の中ではっきりと理解できます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(ヨハ 11:25~26)。
イエスの再臨と神の国の完成を信じる私たちにとって、歴史の終末は個人の終末と一致します。だれも否定できない確固たる事実である死の訪れを念頭に置いて、人生計画を立てなければならないように、真の現実主義者は、個人の終末とともに歴史の終末に関する啓示を真摯に省察しなければなりません。終末は最も確実な現実です。目に見える現実だけに縛られて生きるなら、厳粛な終末を迎えるとき、その人生が虚構であり、妄想であり、錯覚であったことを思い知ることになります。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」(Ⅰペテ 4:7)。


愚かな金持ちは自分の終わりの日を心に留めず、
現実に縛られて生き、突然、終わりの日を迎えます。
彼の人生は実に非現実的でした。


終末は最も確実な現実です。
真の現実論者は、個人の終末とともに
歴史の終末を真摯に省察します。

 

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