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クリスチャンは死んでこそ生きる [ マタイの福音書16章24~28節 ]
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マタイの福音書の恵み 102 |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、 わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」(マタ 16:25)。
マタイの福音書16章25節のみことばを正しく理解するためには、まず、人間のうちにある二つのいのちについて知る必要があります。まず一つは、親から受けたもので、生命学的、動物的な生命です。これは、「肉体」と「精神」の結合体です。 「肉体」を維持するためには、食べなければなりません。また、服を着なければならず、酸素が必要です。そして、歳をとれば自然に弱くなり、病気にかかりやすくなります。「精神」は、愛し、憎み、慕わしく思い、渇望する心です。非常に小さな動物にも、そのような心が見られます。この「肉体」と「精神」が結びついたものが、生命です。多くの人々は、この生命を永遠に続くものと錯覚し、肉体の安全と精神の平安を得ようとして、もがきながら生き、やがては土に帰ります。25節の「いのち」は、まさにこのような生命を意味します。 しかし、人にはもう一つ別のいのちがあります。それは、すべての人間が持っているものではありません。ある人はそのいのちを知っていますが、ある人は全く知らないまま生きていきます。そのいのちは、天から来たものです。親から受けた生命ではなく、永遠のいのちです。このいのちは、イエス・キリストのうちに隠されています。 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(ヨハ 1:4)。 イエス様にいのちがあり、イエス様のいのちは人の光だという意味です。また、イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(ヨハ 11:25~26)と言われました。 このみことばから、25節のみことばの意味がもう少し明らかになります。それは、肉体的で、この世的な生命のために生き、それを惜しみ、愛する人は、永遠のいのちを失うという意味です。同時に、だれでもイエス・キリストのために自分の世俗的で、肉体的な生命を憎み、放棄するなら、永遠なる天のいのちを所有するようになるという意味です。 多くの人たちは、朽ちるもののために時間とお金と情熱を費やします。一坪の土地、一間の家、三度の食事、また、人々の尊敬や名声を得るために生きます。少しでも楽に、安全に、豊かに暮らしたいと願っています。それだけでなく、権力や快楽のためなら、どんな代価でも払おうとします。それは肉体的な人生です。それが人生のすべてだと考えているのです。 そのようなものは、肉体だけではなく、精神活動でも同様です。罪のためにたましいを失い、神様を失った人間の頭は、世俗的な価値観だけでプログラミングされています。そのような人からは、世俗的なことしか出てきません。このプログラムをすっかり覆さない限り、そこから脱出することはできません。 しかし反対に、永遠の価値といのちを所有して生きる人がいます。そのような人は、プライドや傲慢、偏見などの奴隷として生きることはしません。キリスト・イエスにあって神様のために召された使命のために生きます。貧しかろうが、富んでいようが、自分が置かれた状況の中で神様に感謝し、人生の意味や目的を見いだします。 外なる人と内なる人 25節のみことばのもう一つの意味を考えてみましょう。それは、コリント人への手紙第二の「外なる人と内なる人」のたとえに見いだすことができます。 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリ 4:16~18)。 外なる人、つまり肉体は、病み、老い、衰えていきます。外なる人は、穴があいて変色した古着のようなものです。イエス様は、そこに多く関心を持たないようにと言われます。外なる人は必要なものですが、それは人生を保障してくれる永遠のものではないというのです。 ところが、内なる人の中には新しいいのちが育っています。それは、イエス様のいのちです。それは上から受けたものであり、歳月が流れるほどさらに生き生きとした生命力があふれます。ですから、いつか肉体を脱ぎ捨てる日には、私のうちにあるその新しいいのちが神様の懐に抱かれることになります。死も、このいのちを殺すことはできません。外なる人は衰えますが、内なる人は日々新しくなるのです。外なる人の問題を神にゆだねれば、内なる人が生きます。肉の欲求を捨てれば、永遠の希望を持つようになります。それは、日ごとに新しくなるいのちであり、死を超え、神様の前に進み出ることができるイエス様のいのちです。 これが、自分を捨て、自分の十字架を負い、イエス様について行く者の祝福と喜びと栄光です。自分を捨て、自分に与えられた十字架を喜んで負うことができるのは、永遠のいのちを確信した人です。そのような人だけが、疑われたり損をしたりしても、そのようなことは重要ではないと考えることができるのです。
盗人のように来るその日 イエス様は、最後にもう一つ重要な預言をされます。 「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします」(マタ 16:27)。 イエス様は確かに再び来られます。盗人のように来られます。すべてのクリスチャンは、主がきょう来らてもよいように生きなければなりません。今晩、来られるか、明朝、来られるか、だれもわかりません。しかし、いつでもお迎えすることができるように、いつも備えをしておくべきです。 主が再び来られることは、サタンの完全な敗北を意味します。クリスチャンの完全な勝利です。ところで、主が来られるときには、2つのタイプの反応がありえます。主の再臨に備えて生きてきた人は、その日を「ハレルヤ」と言って迎えることでしょう。しかし、イエスを信じていると言いながら、罪を犯し、悪事を働き、暗やみの支配に妥協してきた人々は、死ぬほどの恐れを感じ、とまどい震えることでしょう。そんな人にとって、主の再臨は恐ろしく、苦しい日となります。ですから、私たちは、主が再び来られることを信じ、備えて生きなければなりません。 主が再び来られるとき、どんなことが起こるでしょうか。イエス様は「その時には、おのおのその行いに応じて報いをします」(マタ 16:27)と言われました。恐ろしいことばです。人も、世の法廷も、欺くことができるかもしれませんが、その日、神様の前ではだれも自分の罪を隠すことができません。 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(ヘブ 9:27)。 もし、神様がおのおのその行いに応じて報いをされるなら、そのさばきの前で生き残れる人はいるのでしょうか。ですから、私たちは、きょう備えなければなりません。悔い改めて、イエス・キリストをお迎えしなければなりません。そして、イエス・キリストの御名によって罪の赦しを受けなければなりません。終わりの日のさばきとは無縁な人にならなければなりません。これは、先延ばしにすべき問題ではなく、今すぐ、この場で私たちに与えられる神様のみことばなのです。 死ぬ日がのろいと苦しみの日ではなく、喜びと栄光と祝いの日にならなければなりません。そのような意味で、この世の労苦や苦しみを恐れないでください。この世で悔しい目にあっても、悲しまないでください。自分を捨てれば、すべてが楽になります。そのように生きてください。死んでこそ、生きるのです。
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