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聖書と解釈 特別だが難しくない書物
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クリスチャン人生論 17 |
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ユ・スンウォン デトロイト韓国人連合長老教会 主任牧師
人間の書であると同時に神のことば 聖書は、さまざまな階層の多彩な身分に属する約40人の著者が、約1500年にわたって、三つの異なる言語(ヘブル語、アラム語、ギリシャ語)を使い、さまざまな形式で書かれた66巻を一冊にまとめた書です。聖書が人間の書だというのは、このような「書籍と文章」の特徴のゆえです。人間の言語を使い、表現法や語法、また人名や地名などはすべて、記録された当時の文化を反映しています。そのため、当時の文化の理解なしには、正しい意味を把握できない部分も多くあります。また、40人の著者が書いた66巻を詳しく見てみると、各著者の文体やスタイルがはっきりと現れています。 しかし、聖書には人間の書だと説明できない部分がたくさんあります。多くの人が聖書を読むとき、著者40人の表現ではなく、ただ神おひとりの御声を聞きます。聖書を通して死んでいたたましいがよみがえり、極悪な囚人が新しくされ、絶望から希望へと人生の革新が起こり、理性だけでは説明できない奇蹟を体験することもあります。 聖書の表面的な特徴だけ観察すれば、個人的・文化的多様性が現れますが、その内面を見てみると、神秘的なほど統一性をもっています。聖書は、多様な時代に、互いに知らない間柄の多くの人々が長期間にわたって記録した文献を集めたものですが、同じカテゴリーの主題を扱っています。提示する真理の内的な発展過程と軌跡がはっきりと見えるこの現象について、ウィリアム・オア(William W. Orr)は、このように結論を下しています。 「満足できる回答は、一つしかありません。この人々の力を用いたり、力のない人々に力を与えて、神が彼らを通してご自分のみことばを語られたということです。神が彼らを通してご自分の計画について聖書に記録させたのです」(Bill Bright, Ten Basic Steps Toward Christian Maturity, Teacher’s Manual, p.235)。
聖書の霊感 聖書を記録する過程で人間が用いられましたが、文章を書く人間の心と人格と働きに、神ご自身の御心と考えが吹き入れられました。これを「聖書の霊感」(inspiration)と言います。「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」(Ⅱペテ 1:20~21)。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(Ⅱテモ 3:16)。聖書が人間の言語と文化的表現を通して記録された人間の書であると同時に、神のことばであるというのは、この「霊感」のゆえです。 人間には、目に見える物質性を持たない存在とその影響力を無視する傾向があります。そのため、目に見えない神について知ることができず、正しく論じることもできません。歴史の中で発生した出来事を記すときにも、物質的・社会的な因果関係の外的現象だけを見るだけで、その中に流れる神の御心と霊的な力の神秘的な関係を把握することはできません。 人間のこのような無知にもかかわらず、この世界を治めておられる神は、厳然と人間の歴史に介入され、人間と関係を結ばれます。時には超歴史的・超自然的な方法を使われますが、それは例外的です。いつも超歴史的で超自然的であるなら、すでに世は今の世ではなかったはずです。現在の歴史と自然が、新しい様態になる時が必ずあるはずです。それを終末と呼びます。しかし、まだその時ではないため、神が歴史的方法と人間的方法で語られ、世に入って来られたのが聖書です。そして、イエス・キリストが100パーセント人間でありながら、100パーセント神であるように、聖書も人間の書であると同時に、神のことばとして受肉した(incarnation)啓示の結晶体です。
聖書の理解と解釈 聖書は神の霊感によって記されました。そのため、聖書を読むときも聖霊の助けがなければ理解できません。まずはイエスを受け入れ、新しく生まれてこそ聖書が心に響きます。それまであざけっていた聖書が、イエスを受け入れて私の中に聖霊が臨むと、蜜のように甘く感じられ、一節一節がたましいの中に入ってくる体験をします。「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです……しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」(Ⅱコリ 3:14~17)。ですから、聖書を読むときには、聖霊の導きを求める祈りが必要です。詩篇の著者はこのように祈りました。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」(詩 119:18)。 神が私たちに与えられた聖書は、特別で特殊で限定された目的を持つ本であるため、次のことに注意しなければなりません。 第一に、聖書を百科事典のように思ってはいけません。聖書は救いのための本であって、すべての現象と事物をあますところなく扱うことを意図した百科事典ではありません。聖書は人間史の意味について答えを与えていますが、人類の歴史の詳しい内容と出来事の記録は、世界史の本で調べなければなりません。聖書は、事物の存在の究極的起源について答えていますが、事物の運動の原理と存在の様式についての詳しい説明は、科学者たちの書を読まなければなりません。聖書は「人間の本性はどういうものか」を究明してはくれますが、さまざまな性格異常や精神疾患についての診断、治療方法などを知るためには、心理学者や精神治療専門家の助けが必要になります。神は百科事典として私たちに聖書を与えられたのではありません。 第二に、聖書を六法全書のように考えてはなりません。プロテスタントの旧約聖書と同じユダヤ人の経典を「トーラー」と呼びます。「トーラー」は本来聖書の最初の5巻である「モーセ五書」の通称です。これを「律法書」(law)と翻訳しましたが、実は「トーラー」は「教え」(teaching)または「教訓」(instruction)を意味する単語であり、ローマ式の「法律」概念とは、かけ離れています。 聖書の中に「法」に該当する記録が含まれてはいます。しかし、聖書の主軸は、神と人間の間の人格的関係についての内容です。旧約でも預言者の伝統は、トーラーの規定条項よりもトーラーの精神である「神への愛」と「隣人愛」について力説しています。これがイエスの解釈でした。律法も重要ですが、それよりも重要なのは、律法の精神である正義とあわれみと信仰です(マタ 23:23)。人間世界は法に依存し、法は時間が経つほど複雑になります。人間が規定の弱点を見つけ、抜け穴を作るために、それを塞ぐさらに細かい規定が加えられていくのです。 聖書は、人間の間違った行為を禁止し、さばくために、さらに詳細な規定を加えていく法典ではありません。聖書を法的に読む人は、聖書をほかの人をさばくために用い、自分を良心の呵責に縛りつける傾向があります。聖書の中には法や道徳、原則がありますが、それは根本的に神と人間の間の正しい関係を定義するためのものです。そのため、人をさばくために聖書を用いてはなりません。 第三に、聖書の解釈を誤って、誤った使い方をしないように気をつけなければなりません。物議をかもしている新興宗教団体が、聖書は暗号に満ちた秘密文書だと言って曲解し、教祖らが好き勝手に解き明かした愚かな論理を主張しています。聖書に象徴やたとえがあるのは事実ですが、聖書は決して「隠すために記録された暗号文」ではなく、むしろ「はっきりと示すために記録された啓示」なのです。 隠すことを目的にした文章は、隠された意味を教える人の特別なコード解説が必要です。一般的な疎通の法則が無視され、その象徴と隠語を共有する人々だけがその文書を読むことができます。 聖書にも、黙示録やダニエル書のように未来のことを預言し、若干の暗号文的な性格を持つものもあります。しかし、そのような文章は特別な理由があってそのような方法がとられたのであり、ほとんどの聖書は、歴史や物語(ストーリー)、手紙、詩、事実報告など、意志の伝達に困難のない一般的な文献ジャンルとして記されています。つまり、聖書は、意思疎通を目的とするもので、隠すことを目的とした文書ではありません。困難なところがあるとすれば、記録者と私たちの間に時空間的な距離があることです。これを克服するために、専門家から若干の助けを得れば、だれでも読めるのが聖書です。もし聖書を魔法書のように宣伝したり、秘密文書のように解釈し、それを霊による解釈だと強要する人がいたら、すぐにその正体を疑ってください。 神の感動によって書かれた聖書は、具体的に人間に救いの道を教え、神の人として完全にし、すべての良い働きのために力を備えさせることに有益な書です(Ⅱテモ 3:16~17)。聖書は救いのための書であり、神の人をきよくする書です。この目的にふさわしい読み方をし、黙想するとき、神の御心にかなった人生を送ることができるでしょう。
神が歴史的方法と人間の方法で語られ、 世に入って来られたのが「聖書」です。 聖書は、人間の書であると同時に神のことばです。
聖書は百科事典や六法全書、暗号文ではなく、 理解しやすい救いのための書であり、 私たちを神の人として完全にする書物です。
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