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QTと信仰 ―はじめに―
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QTと信仰 ① |
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イ・ギフン オンヌリ教会 副牧師、QT養育部 部長
今日の教会は、危機に直面していると言われています。教会のリバイバルの停滞、名ばかりのクリスチャンの増加、社会的信頼度の墜落、世俗化している教会、神学の不在、キリスト教に対抗する世の流れなどが、教会の未来を暗くしています。このような状況の中でも、みことばにすがって教会と信仰の本来の姿を取り戻そうとする努力が、あちこちで起こっていることは、実に幸いなことです。 その中の最も代表的な運動が、QTのようなみことばの黙想です。これは、宗教改革以後、沈滞期に陥っていたドイツの教会で、みことばの黙想を通して信仰者たちの敬虔生活を覚醒しようと奮い立った敬虔主義運動と似ています。今日、多くの牧会現場でQTを活用したプログラムを開発し、子どもたちや中高生たちを含めた信徒たちのQTを助けるために、多様な書籍が出版されているのは、みことばの回復運動のために励みになることだと言えます。しかし、このようにQTが信仰生活と牧会で多様に活用されていますが、見過ごすことのできない問題点も見られます。 みことばの黙想は、どんなに強調したとしても決して強調し過ぎではありません。なぜなら、主のことばを黙想し、適用しながら生きることが、聖書が提示する信仰生活の方法だからです。ですから私は、数十年間、すべてのクリスチャンはみことばを黙想しながら生きなければならないと強調してきました。みことばの黙想こそが、幸いな人生をもたらし、人生を堅固にするだけでなく、聖霊の導きを受けながら生きるようにしてくれるからです。私が自称QT伝道師として働きをしながら、最も強調することは、「QTする人は幸せです」ということです。こつこつと毎日QTをすれば、本当に人生が幸せになります。これは、大学1年生の時からQTをしてきた者のひとりとしての証しです。毎日、主のみことばによって自分の考えと人生を整える人は、一日一日が日ごとに新しくならざるをえません。みことばだけが、信仰の本質であり、同時に教会の本質でもあります。しかし、さらに成熟したQTをするためには、今まで教え、あるいは学んできた自分のQTの現状を点検する必要があります。 第一に、これまでのQTは、神学的な根拠が十分ではありませんでした。既存のQT関連の書籍は、内容が著者の個人的な経験や理論が土台となっています。そのため、彼らが提示するQT理論は、神学的土台が弱くならざるをえません。そうなると、既存の数名のQTの働き人たちが提示していた内容に準ずるので、限界が生じます。最近、QTが盛んになってきたにもかかわらず、神学的な根拠の提示が弱いという点は、それほどQTに対する学術的な研究が足りなかったという事実を反証しています。実際、QTについて講義する人はたくさんいましたが、QTの神学的な基盤を作る人は、ほとんどいませんでした。それで私は、宗教改革500周年を迎える年にQTに神学という服を着せました。なぜなら、改革者たちに共通した主張が、みことばに帰らなければならないということであり、QTこそが聖徒をみことば中心に生きるようにさせる霊性の道具だからです。 第二に、QTに対する理解が足りませんでした。一般的に、QTは個人の敬虔生活の一つとしてのみ理解されてきました。QTの目的が個人の信仰の成長を追求することだけに集中しているという意味です。もちろん、このような理解が間違っているわけではありません。しかし、そこにはQTの重要な部分である、QTを通しての教会共同体の成熟と、社会参与が見過ごされていたのです。言い換えれば、QTは個人の霊的成熟を超えて、教会共同体の成熟を可能にさせるだけでなく、さらに進んで、QTをする人々と教会が、日々神様から与えられるみことばに従って歩むことにより、社会を変化させる働きにあずかることです。 第三に、QTにおいて、聖霊の役割に対する強調が微弱でした。聖書の本来の著者は聖霊です。聖書に記されているみことばは、聖霊の導きによってのみ悟ることができ、その結果、きょう与えられるみことばとして再解釈されます。ですから、聖霊の導きがなくては、全き黙想をすることができません。私たちがみことばを黙想するとき、聖霊はみことばを悟らせ、理解できるように助け、決断へと導いてくださるだけでなく、日常生活で適用できるよう助けてくださいます。したがって、聖霊の導きのないQTは、全きものにはならないのです。 QTは、このような基礎的な理解の限界を超えた、新しいみことばの黙想の道具として、再定義される必要があります。QTが個人の敬虔訓練を目的とする霊的方法であることには違いありませんが、キリスト教の信仰の根本的な意味に関しては、新しく理解されなければならないということです。つまり、QTとは、個人の敬虔生活を超えて、教会共同体の成熟と社会参与まで含めて、広く理解されなければならないということです。これから始める「QTと信仰」では、個人的な黙想としてのQTの限界を克服し、ポストモダン時代にふさわしい信仰生活の方法と、クリスチャンが全人格的に霊性を追求する方法としてのQTを提示しようと思っています。このコーナーが、QTを教える人々はもちろん、QTを慕い求めるすべての方々にとって、少しでも助けになることを願っています。
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