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マタイの福音書の恵み 90
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人間の言い伝えと主のおしえ ② [ マタイの福音書15章4~9節 ] |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。 人間の教えを、教えとして教えるだけだから」(マタ 15:8~9)。
神のことばを無にする者 イエス様は、パリサイ人と律法学者たちが、神の戒めよりも人間の言い伝えを大事にしているので、たとえを用いて説明されました。「神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました」(マタ 15:4~6)。 出エジプト記では、「あなたの父と母を敬え」(出 20:12)、「自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない」(出 21:17)と言っていますが、ユダヤ人は、これにもう一つつけ加えました。ある人が親に孝行をし、ささげる物があるのに、両親よりも偉大な神様にささげれば、両親にはささげ物をあげなくてもよいというのです。マルコの福音書7章11節では、このささげものを「コルバン」と言っています。神様への献金や献身を理由に、親に仕えないことを正当化したのです。 なんと狡猾で、反聖書的でしょうか。しかし、そのような人を批判する人はいません。はた目には神様によく仕えているように見えるからです。しかし、イエス様は、それについて指摘されました。「『その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました」(マタ 15:6)。これは、今日でも深刻に考えるべき問題です。どうして「言い伝え」ができるのでしょうか。神様にしっかり仕えるためです。ところが、その言い伝えの中に人間の考えが入り込みました。初めのうちは良かったのですが、歳月が流れ、それがかえって神様のことばを無にするまでに至ってしまいました。 教会は神様の栄光のために存在します。それなのに、教会では、分裂や争いなど、いろいろなことが生じます。そして、教会全体が分裂するに至ります。神様の栄光のために建てた教会が、結果的に神様の顔に泥を塗ってしまうのです。
信仰者の二つの顔、偽善 このように人間の言い伝えによって神様のことばを無にする者に、イエス様は「偽善者たち」(マタ 15:7)と言われました。これは、「二つの顔を持った俳優」という意味です。俳優は、自分ではないほかの人物を演じます。信仰者の持つ二つの顔、それこそまさに、偽善者の姿です。 信仰生活の中で最も気をつけなければならないのが、「偽善」という罠です。イエス様が最も警戒された部分もそこで、マタイの福音書23章で、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」と7度もくり返し言われました。 では、偽善者とは、どんな人でしょうか。マタイの福音書23章を見ると、イエス様はこのように定義されました。口先だけで行いの伴わない人、人にやらせて自分は指一つ動かさない人、ほかの人に認められようと見た目だけに関心のある人、高い地位にのみ関心のある人を指して、偽善者だと言われたのです。 偽善者は神の国の門を守るだけで、自分は入らず、人々をも入らせないようにする人です。そして、熱心に伝道しながらも、その人を自分よりも悪いゲヘナの子にする人です。自らを模範だと自負しながらも実は盲目な人、十分の一を納めても律法においてはるかに重要な正義とあわれみと誠実をおろそかにしている人、杯や器の外側はきよくしながらも、その中は強奪や悪い考えでいっぱいの人です。 また、白く塗った墓のように、外側は美しくても、内側は死人の骨や汚れたものでいっぱいの人、預言者の墓を建てて義人の記念碑を飾っている人です。偉大な人の写真を貼り、自分はその横に立つというような人はみな、偽善者たちです。このような人に気をつけなければなりません。 イエス様はイザヤの預言を借りて、次のように語られました。「偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから』」(マタ 15:7~9)。 ここで、偽善者が二つのタイプに定義されています。一つは、口先では神様を敬っていても、その心は神様から遠く離れている人です。もう一つは、神様のことばを利用して、人間の教えを教えている人たちです。自分が話せば聞いてもらえないとの思いから、神様のことばで自分のことばを覆います。そして、自分の考えや言いたいことを伝えるのです。このような人がささげる礼拝は、むなしい礼拝です。口先だけで神様を賛美し、心では別のことを考えている人、別の目的や動機で教会に来る人、このような人の礼拝を、神様は受け取られません。 偽善はだれもが陥りやすい罠です。信じて間もない人は、偽善に陥ったりしません。信仰生活の長い人ほど、偽善に陥る確立が高いのです。歳月が流れるほど、歳を重ねるほど、無意識のうちに偽善の罠にはまってしまうということを覚えてください。罠にはまれば、喜びも感激も信仰も、すべてなくなってしまいます。では、そのような状態から、どうすれば抜け出すことができるでしょうか。
偽善の罠から抜け出すには 偽善から抜け出す第一の方法は、神様のことばに立ち返ることです。伝統や制度、習慣などから離れ、幼子のように純粋に、再び神様のことばの前に立つのです。 私が教会を開拓した最初の一年間、私の教会では、牧師や長老などの役職名をすべて省き、兄弟、姉妹と呼び合いました。今考えても、それは本当に良かったと思います。「牧師ではなくクリスチャンです。長老ではなくクリスチャンです。職務が重要なのではありません。私たちの本質は、クリスチャンなのです」。このように生きれば、試みにあうことはありません。そして、偽善に陥りません。私たちの周りには誤った神学がたくさんあります。聖書の教えを間違って教えるよう誘導します。民衆神学が、その代表的な例です。見方によれば、最も聖書的に見えます。貧しい人を助け、民衆のことを考え、苦しい人のために生きること、それ自体が間違っているというのではありません。そこに、イエス・キリストが抜けていることが問題なのです。聖書をあるがままに読むことができないようにし、そこに何かをつけ加えるのです。 第二の方法は、自分を否定することです。イエス様は、「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』」(ルカ 9:23)と言われました。自分を捨てれば、偽善に陥りません。では、自分を捨てるとは、どういうことでしょうか。自分は何者でもないと告白できる状態です。イエス様は、ご自身を十字架にささげるほどにご自分を捨てられました。自分は何者でもないと考えるとは、どういうことでしょうか。謙遜です。私は何者でもなく、主張することが何もないと考え、自分にできることは仕えることだけだと考えるとき、私たちは信仰の偽善から抜け出すことができるのです。 第三の方法は、イエス・キリストのことを頻繁に考えることです。「イエス様はどのように生きられただろうか」「どのように人間関係を持たれただろうか」「どのように話されただろうか」「神様とどんな関係を持たれただろうか」と頻繁に考え、そのように生きるのです。イエス様の人生、考え、生活態度などに倣おうと努力すれば、偽善から抜け出すことができます。 自分の言い伝えのために、神様のことばを無にしてしまうことがないようにしましょう。天国に行くその時まで、幼子のような純粋な信仰によって主に仕えていきましょう。
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