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クリスチャン人生論 ⑦
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キリスト論:キリストの唯一性 |
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独善ではなく恵みです ユ・スンウォン デトロイト韓国人連合長老教会 主任牧師
「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」。だれが言ったことばでしょうか。使徒パウロです(ロマ 12:14)。自分を苦しめる人がいても、のろってはいけません。しかし、ガラテヤの教会に送った手紙の中で、パウロはのろいます。“アナセマ”(avna,qema[のろう]、ガラ 1:8~9)という単語が2度も出てきます。本来この単語は、ささげられた誓願のささげ物を指します。間違ったことをすれば恐ろしい目にあうという、のろいを誓う表現です。「のろわれるべきです!」パウロはなぜこのように強く言っているのでしょうか。
“アナセマ”によって守らなければならなかった福音 パウロの手紙は、祝福と祈りのことばで始まるのが通例ですが、ガラテヤ人への手紙では、はじめから感情的になり、警告が先に出ています(ガラ 1:6~9)。序論も何もありません。「私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです」(ガラ 1:9)。だれが見ても単刀直入な表現です。ガラテヤの聖徒がだれかにだまされて、ほかの福音に従っていると言っているのです。自分たちの宣べ伝えている福音とは異なるので、「ほかの福音」(ガラ 1:6)と言っています。しかし、「ほかの福音」などありません。それで、「もう一つ別に福音があるのではありません」(ガラ 1:7)と言っています。福音は一つしかありません。 それは絶対的です。「天の御使い」であっても、すなわち、神が遣わした使いであっても、ほかの福音を宣べ伝えるなら、その者はのろわれます(ガラ 1:8)。さらに、パウロ自身も、心が変わって自分が伝えた福音と異なる福音を受け入れるなら、それものろわれる(アナセマ)べきだと言っています。これは、福音が、よく話し合って互いに譲歩したり、妥協したりすることができるような性質のものではないことを、恐れをもって告白しているのです。 ほかのどんなものも割り込めない真の福音とは何でしょうか。パウロのことばを聞いてください。「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか」(ガラ 3:1)。ここで、「目の前に、はっきりと示す」(proegra,fh, プロエグラぺ)という表現は意訳です。ギリシャ語の動詞の本来の意味は、「目の前にはっきり書かれている」です。目の前にプラカードのように大きく書かれているのに、それが見えないのかという問いとしてとらえることもできます。そこにはっきりと書かれているのは「十字架につけられたイエス・キリスト」です。これが真の福音です。これ以外にほかの福音はありません。 コリントの教会に送った手紙でも同様でした。「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」(Ⅰコリ 2:2)。
神のみもとに行く唯一の道 パウロのこのような考えは、一時、彼が不当だと考えて迫害していたイエスによるものでした。イエスは、自分の唯一性をこのように語られました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハ 14:6)。 人類の歴史の中で、すばらしい師はたくさんいます。中でも、孔子や釈迦、ソクラテス、イエスを、世の四大聖人と呼んだりもします。釈迦と孔子は高等宗教の創始者ですが、人々が認めているように、彼らはふつうの人間でした。人間として社会問題について深く悩み、人間の運命を嘆きながら正しく生きる方法を求め、宗教の創始者と呼ばれるようになったのです。 しかし、イエスはこの世にありえない方法で生まれました。聖霊によってみごもったのです。偉大な聖人たちとは異なり、懐妊の起源は人間ではなく神でした。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハ 1:18、「ひとり子」〔モノゲネス〕の意味については、「クリスチャン人生論」5月号参照)。イエスは、直接神から来て、再び神のもとに帰られました。「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です」(ヨハ 3:13)。人類史上、だれもこのように来て、このように去った人はいません。なぜそうでなければならなかったのでしょうか。 私はひどい「方向音痴」です。信徒の家庭を訪問するときにはハンドルの権威を妻に完全に奪われ、静かに助手席に座っていなければならないほどです。そんな私でも、確実に知っている道があります。それは、家から教会に行き、教会から家に戻る道です。細かい路地で、道もかなり複雑ですが、それでも私は知っています。私の家に帰る道に関しては、私が専門家だからです。 私たちを神のみもとに案内できる最高の適任者はだれでしょうか。ほかの3人の聖人を含め、だれも神のみもとに行く道を知らない現実の中で、私たちを案内できる方は神から来られた唯一の方、イエスだけです。イエスだけが神のみもとに行く道であるのは、神から来た方しか私たちを神のもとに導くことができないからです。そのイエスが、神のみもとに行く道を塞いでいる私たちの罪を贖うために、十字架で死なれ、塞がれた道を開く福音となられました。ほかの福音などありません。
独善ではなく恵み! キリスト教に対するこのような批判をよく聞きます。「独善的だ! あまりにも排他的だ!」キリスト教が独善的だからきらいだと言い、漠然と宗教多元主義を論じる人々は「宗教というのは正しく生きて、心に平安を与えるためのものだから、いろいろな方法がある」と考えます。間違った言葉ではありません。しかし、キリスト教の福音の核心は、正しく生きて心の平安を得るというものではありません。救いです。人間の究極的な問題である、罪と死の問題を解決することです。正しく平安に生きる方法を論じる程度の問題ではなく、罪と死とさばきに対処することなのです。 「人間が罪と死の問題を解決して救われる道」には、人間の方法と神の方法の2つしか考えられませんが、人間の方法は目をこすって探しても見つかりません。耳を傾けてみると、みな「よくわからない」と答えるだけです。すなわち、不可知論(物事の本質は認識できない、という立場)です。しかし、私たちの一度しかない人生を「不可知論」にかけることはできません。全世界よりも尊いいのちを「よくわからない」ものにゆだねることはできません。神の方法にゆだねる以外に、道はないのです。「神の方法」とはイエス・キリストであり、これが正しい福音です。 人間の方法は、人間の努力によって永遠のいのちを得ることです。しかし、それが不可能であることは経験からもわかります。とても厳格だったパウロは、律法による義については非難されることのないパリサイ人でしたが、それでも、永遠のいのちを得ることはできませんでした。弱くて罪をくり返し、卑怯で利己的な存在である人間の方法では、不可能なのです。神が提示された福音は、ほかの道のない私たちの問題を解決する真の解決策です。 罪の問題から人間が救われる唯一の方法を主張することは、独善ではありません。ほかの道がないために、唯一の道を語ることだからです。その道を与えてくださったのは、全面的に神の恵みです。キリストの唯一性は、神の恵みと知恵であるということを知らなければなりません。これを知った後のパウロの言葉です。「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」(Ⅰコリ 1:23~24)。キリストの唯一性は、独善ではなく神の恵みであり、知恵なのです。
人間の罪性の側面、宗教多元主義 ご自分の御子を苦しめてまで、人間に救いの御手を差し伸べる贖いの恵みを独善だと批判することは、人間の罪の性質の一面です。世のすべての宗教はみな一つだと、簡単にはぐらかす宗教多元主義にだまされないでください。神の救いの御手を「独善」だと言って拒絶する人々には、宗教多元主義のほうが包容力があるように見えるでしょう。 しかし私は、宗教多元主義の心理からローマのパンテオン(Pantheon、すべての神々を祭る神殿)を読み取ります。つまり、名分は神にささげるものだと言いながら、実は豪華な建物を建て、そこにあらゆる神々を入れておく皇帝の傲慢な権力行使です。その裏には、すべての神々に平等に恩恵を与える皇帝の寛大さと包容力の誇示が隠れているのです。 神の恵みを受けて救われるべき罪人が、自分の心の中のパンテオンに、キリストを神々の中の一つに格下げして展示し、包容力のあるふりをする高度の高慢こそ、宗教多元主義です。彼らは、唯一の救いの恵みであるイエス・キリストの福音を、「薄っぺらい人間の包容力」によって見下してパンテオンを建てるのです。私たちは、自分は罪人であると認めて告白するとき、そのような宗教多元主義を警戒することができるのです。
神のみもとに行く道を知らないこの現実の中で 神のみもとに案内できる最高の適格者は、 神から来た唯一の方、イエス様だけです。
キリストの福音の唯一性は、ほかの道のない 私たちの問題であり、イエスの独善ではありません。 独善ではなく神の恵みであり、知恵なのです。
今後のテーマ 7月.キリスト論:イエス・キリストの唯一性 8月.キリスト論:イエス・キリストの品性 9月.神論:創造主なる神
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