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分け合うとき奇蹟が起こります [ マタイの福音書14章13~21節 ]
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マタイの福音書の恵み 85 |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
「夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。 『ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。 そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください』」(マタ 14:15)。
神の視点で見られるイエス様 「夕方になったので」(15節)ということから、かなりの時間が流れたことがわかります。イエス様は、食事もせず、夕方まで教え、病をいやすことに専念されました。福音の驚くべきみことばが宣言され、あらゆる病がいやされるという驚くべき霊的状況の中で、現実的な問題、つまり、空腹の問題にぶつかりました。 病がいやされる奇蹟や、天の御国のみことばの恵みの中で生きられるなら、どれほど良いでしょうか。しかし、現実はそうはいきません。家庭を顧みたり、子どもを学校に行かせたり、税金を払ったりしなければなりません。解決すべき現実問題があるのです。それで弟子たちは、空腹という現実に戻ろうと言ったのです。 するとイエス様は、「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」(マタ 14:16)と言われました。いい加減なことばのように感じられます。弟子たちは「解散させて、それぞれ自分で解決するようにさせましょうか」と、合理的なことを言いましたが、イエス様は「行かせる必要はありません。あなたがたで食べる物を上げなさい」と言われました。ここで私たちは、イエス様がそのように言われた意図を考えなければなりません。そこには、二つの意図があります。 まず、教会は、世の人々に霊的な問題だけでなく、肉的な問題に対しても解決策を示さなければなりません。教会は、食べる問題にも関心を持って解決しなければならないというのです。それは、人間的に考えるなら、とうてい不可能に思われますが、イエス様はそうしなさいと命じられました。 ここでもう一つの意図を見いだすことができます。弟子たちは、空腹の問題を人間的な視点で見ました。合理的な視点、つまり経験や常識による視点です。そのため解決策が見つかりません。5千人を早く解散させて、それぞれが買って食べるようにさせるというのが、弟子たちの意見でした。 しかし、イエス様は、神の視点でこの問題を見ました。病をいやす奇蹟だけでなく、食べ物についても、神様が超自然的な力を現されることを示そうとされたのです。 「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタ 6:31~33)。 ここにイエス様の驚くべき意図があります。ただ祈りさえすれば食べ物が与えられるのかと、あざ笑う人もいるでしょう。しかし、イエス様は、神のみことばに従うなら奇蹟が起こるという視点を持っておられるのです。神様に心から信頼すれば、救いの問題、病のいやしの問題だけでなく、生活の問題においても奇蹟が起こるのです。
奇蹟を起こすのに必要な種 では、このような奇蹟がどのように起こるのか、5つのパンと2匹の魚の出来事は、今日を生きている私たちにどのように適用できるのか、一つ一つ探ってみましょう。 「しかし、弟子たちはイエスに言った。『ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません』」(マタ 14:17)。 パンが5つと魚が2匹は、ひとりの食事にすぎませんが、それによって5千人が食べても残るという奇蹟が起こりました。神様が奇蹟を起こされるのに、種が必要だったのです。もちろん神様はマナを下すこともおできになりますが、ここではそのようにされませんでした。神様は私たちの病をいやされるときも、まず信仰を与えられます。「わたしにできると信じるのか。あなたの信仰のとおりになれ」と言われるのです。これが一般的な方法です。 神様はここで、お金で買って食べさせる方法を用いられません。「あなたがたが持っているものは何ですか」と聞かれます。エリヤに出会ったツァレファテのやもめのように、「からの油のつぼでもいい。一握りの粉でもいい」と言われるのです。それは、やもめを豊かにすることのできる量ではありません。パン5つと魚2匹で5千人を食べさせることはできませんが、信じて差し出すことが重要なのです。なぜなら、神様はその信仰を通して、その種を通して、ほんの小さなものを通して、奇蹟を起こすことを願われるからです。 神様が今、私たちに求められるのは、もしかしたらほんの小さなものなのかもしれません。神様は、量が多いことよりも、心のこもっていることのほうを大切にされます。外に現れる行動よりも、その行動をする動機を見られるのです。祝福とは、与える者の問題ではなく、受ける者の問題です。与える方は、天の倉を開いて愛する子どもたちに豊かにあふれるほど注ぐことを願われます。人間が罪によって傲慢になり、祝福の器をすべて伏せているので、神様は祝福を注ぐことができないのです。 神様は「わたしがあなたがたのために、わたしの子イエス・キリストを十字架につけて殺すことまでしたのだから、どうか信じてくれ」と人間に求めておられます。神様に祝福がないのではありません。私たちが拒み、限界を設けているから、神様の祝福が私たちを通して働かないのです。
奇蹟は分け合うときに起こる イエス様は、小さなものを通して奇蹟を起こされました。「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい。』そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった」(マタ 14:18~20)。 イエス様は、5つのパンと2匹の魚を持ってくるようにと言われ、群衆を草の上にすわらせ、それらを祝福してパンを裂かれました。イエス様は先に祝福し、それを分け与えられました。もしそれを持っていた少年がパンと魚を食べていたら、ひとりの腹が満たされて、5千人は空腹のままです。弟子たちが受け取ったパンと魚を自分たちだけで食べてしまったなら、奇蹟は起こらず、それで終わっていたでしょう。少年が差し出したからこそ、奇蹟が起こったのです。 神様が祝福されたものを分かち合うときに奇蹟は起こります。人間の頭と方法では理解できない超自然的なみわざが、物質世界でも起こります。これは、努力を排除したわけでも、人間の責任を無視したわけでもありません。神様の祝福と分かち合いがあるとき、このようなことが起こるということです。私たちが世を変える原理がここにあります。少しのお金でも、一杯の水でも、それを分け合うとき、腹をすかせて病んでいる人や苦しみの中にある人々を生かす奇蹟が起こるというのです。 これが5つのパンと2匹の魚の奇蹟です。私たちが差し出す少しばかりの献金が、多くのいのちを生かします。自分ひとりで食べてしまえば一食分ですが、それを祈って分け合うなら、人が生かされるのです。5つのパンと2匹の魚の奇蹟が、この世に対してどれほど現実的で具体的な神の方法であるかがわかります。私たちが祈ってささげる宣教献金、聖日献金には、それがほんの少しであっても、人を生かし、国を変えるほどの種になるのです。 私たちには物があふれています。しかし、人と分かち合う方法がわからないので、結果的に、いつも貧しく生きてきました。すべて自分のものにしてこそ満足し、財産や名誉が手に入らなければ不安になります。少年が5つのパンと2匹の魚をイエス様にささげたように、私たちも自分にあるものをすべて主にささげなければなりません。そのようにできる信仰を与えてくださいと、主に祈りましょう。そうするとき、神様が奇蹟を起こされるのです。
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