釜山のヘウンデでは、毎日の早天と毎週金曜日の夜、 賛美と祈りの熱気と恵みがあふれます。『リビングライフ』創刊号を 今でも大切に保管しているイ・ギュヒョン牧師(水営路教会主任)から 日常の霊性を磨くQTについて聞いてみました。
QTは朝の露であり霊的習慣 幸福は、特別な出来事ではありません。平凡な日常です。幸福は、お金によるのではありません。親密な関係からにじみ出るものです。また、幸福は、急に降り注ぐものではなく、しっとりと潤っていくものです。そのような点で、幸福は習慣です。荒野を生きる多くのクリスチャンが、滝のような恵みを求めます。しかし、荒野では、にわか雨すらほとんど降りません。荒野の草木は、みな露によって育ちます。QTは、荒野で迎える朝露のようなものです。QTは霊的習慣です。習慣というのは、一朝一夕で身につくものではなく、長い間、少しずつ積み重ねていく中で身につきます。 私の家庭は寺でした。幼い頃から父が寺を守っていたので、香の匂いと木魚の音に慣れていました。小学校6年生までそのように過ごしていましたが、突然家に困難なことが次々と襲いかかりました。そんなとき、叔父の病院に来た患者が、私たち家族に福音を伝えてくれました。神様が働かれ、家族みんながキリスト教に改宗しました。その後、私は、高校2年生の時の修養会で人格的に主に出会いました。 信仰生活を始めたときから、言うまでもなく毎日みことばの黙想をするべきだと考えていました。QTを正式に始めたのは教育伝道師のときですが、今は故人となられた聖書ユニオン宣教会のユン・ジョンハ長老に大変助けられました。個人的な黙想を越えて、分かち合いを通して励ましや指示だけでなく、チャレンジを受けることも学びました。 自然にQTが人生の最優先順位になりました。神様と交わることが何よりも重要であることを知ったからです。働きを始めたころから、教師ミーティングはQTの分かち合いで行い、教会を開拓したときには、すべての信徒にQTを教えました。ほかの組織は必要ありませんでした。今も信徒たちに、QTを最優先にすることを強調しています。
みことばに集中するために QTは、人生を動かす発電所です。最近は、午前中はQTと祈りだけに専念しています。みことばに集中するために、自分を閉じ込めるのです。少々のことでは自分に外出許可を出しません。大切なことは別に取っておくものです。自分だけの時間を作り、QTを根気よくすることをお勧めします。最初から多くの時間を取るのではなく、少ない時間でも規則的にQTをすることが重要です。目標が高く、欲張るほど、失敗する確率が高いからです。 私にとってQTは食事と同じです。毎日の食事のように、特別なものはなくても、食べなければ生命が危うくなります。ご飯にも、程よく炊けたご飯、固めのご飯、水っぽいご飯、おこげがあるように、みことばも聖書個所によって味が変わります。「生まれ…生まれ…生まれ」のような系図が並んだ部分は退屈に思えたりもしますが、みことばを黙想しながら待っていると、いつしか私の霊が、水路のそばに植わった木のように、いのちの水を飲んでいます。 自分の手でご飯を食べるように、みことばを自分で食べて成長しなければなりません。各自が黙想し、従い、献身しなければなりません。自分でする訓練を怠ると、空回りしてしまいます。だからこそ、神様と一対一で会う訓練であるQTが重要なのです。信仰生活の基本の枠を作ってくれるからです。毎日、新しいご飯を作って食べるように、毎日決めた時間にQTをしてみてください。新鮮なアイデア、知恵、洞察力を得ることができます。それが凝縮され、熟していくと、人生と働きに欠かすことのできないキーワードが与えられることもあります。みことばの恵みは、私が努力したからといって与えられるわけではありません。神の導きが必要です。みことばを毎日規則的に読むなら、導きを受けることができます。みことばの恵みを受けた人は、みことばに導かれる人生を生きるようになります。 QTは分かち合うことが大切です。分かち合いを通して継続できる力を受け、チャレンジも受けます。教会と世での姿が全く異なる二面性のある人生を、格好良いと思ってはいませんか。QTの分かち合いによって、自らをしっかり認識し、真実さを回復することができます。個人の静かな霊性が、共同体の活気へと自然とつながっていくのです。 これこそがリバイバルです。リバイバルは火のような奇蹟ではなく、あふれ出る恵みに浸ることです。日常の霊性を回復すれば、人生のすべての領域を神が治めてくださいます。QTを通して神の臨在があなたの肩に毎日露のように降ることをお祈りいたします。
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