神様と隣人に仕え、世を美しくする教会、 最高の教会を夢見る ソ・ジョンオ牧師(ドンスン教会 主任)が、 「飢え渇いた人生」に伝える 潤いのあるQTストーリーを聞いてみましょう。
QTの結果、「くつろぎの礼拝」を始める 「主よ、忙しくてできません。私にできることではありません」。5年前、神の御前で格闘しながら吐き出した祈りです。QTの中で、神様に毎日夕拝を準備するよう命じられました。職場に通っている信徒が教会に来て、主にあってくつろぐ時間を持たせなさいというのです。聖日礼拝と水曜礼拝、早天礼拝の説教のほとんどを行う私としては、従うのが難しいみことばでした。数か月間、神の御顔を避けて逃げ回り、葛藤しましたが、ついに「くつろぎの礼拝」という名で夕拝を始めました。もう5年になります。川のほとりに植えられた木の実のように豊かな礼拝で、私も信徒も幸せになる時間です。 大学時代、CCC(キャンパスクルセードフォークライスト)の集まりで初めてQTを始めました。故キム・ジュンゴン牧師やハ・ヨンジョ牧師などが先輩として奉仕していましたが、その方たちがみことばを生活に適用する姿を見ながら、QTをからだで学びました。 毎日神の御心を知るためにQTをしますが、神の御声が聞こえたとき、それを行動に移すことは決して容易ではありません。韓国の教会の信徒には、知識は多くても知っていることを生活に結びつけられないという問題があります。しかし、人生に変化を起こさない黙想は、真の黙想とは言えません。QTの終止符は、まさに「従順」にあるのです。
みことばの前に現れた考えと感情を調べる 私には忘れられないQTの思い出があります。大学2年生の時に黙想した創世記9章の話です。ハムが父ノアの恥ずかしい姿を見て軽率な行動をとったために、子孫がのろわれます。酒に酔った父のほうが過ちは大きいのに、なぜ神様はハムの子孫をのろわれたのか理解できませんでした。このみことばに強く抵抗する自分を見ながら、神様が私の心をノックしておられるのだと思いました。内面に浮かぶ考えや感情が何であるのか探りました。すると、成長期に見た酒に酔った父の姿が思い浮かびました。私の父に対する否定的な思いが浮き彫りになったのです。「ああ、私は父のせいでこのみことばに反感を持ったのだな」 その日のQT個所の中で、目を引くみことばがあったらそこで立ち止まり、自分の感情や考えを調べてみましょう。心の内面をみことばで照らしてみると、自分のうちにどんな思いがあるかがわかります。たとえば、あるみことばを黙想しているときに悲しくなるなら、自分に悲しいことがあったという証拠です。あるみことばを黙想しているときに怒りが生じるなら、自分がだれかに腹を立てていることがわかります。何かの場面が思い浮かぶなら、聖霊様に洞察力と悟りを与えてくださるように祈りながら、その場面を深く黙想してみましょう。そうすれば、神のかすかな御声を聞くことができます。
聖書を知るほど黙想が深まる 以前、信徒たちとともに1泊2日の霊性訓練キャンプに行ってきました。同じ聖書個所を1時間ずつ3度黙想しました。参加した人々が深い黙想を味わう貴重な時間でした。キャンプ最終日、ある姉妹が深刻な顔つきでやって来て、「神様に会うことができません」とうなだれていました。父親が牧師なので、教会の中で育った姉妹でした。神様が生きておられることを信じるかという問いに、彼女は答えることができませんでした。何が問題なのでしょうか。その姉妹は、父親の説教を聞くだけで、自分で聖書を読んだことが一度もなかったそうです。私たちの信仰の対象は神様であり、みことばが神様であるため、みことばを知らないなら信仰は生まれません。そのため、その姉妹にはまず聖書を毎日1章ずつ読むことを勧めました。 QTは、私とともにおられるイエス様に、みことばを通して出会うことです。成熟した出会いのために、知性、感性、経験などのすべてを活用します。神様を知る知識がないなら、うまくQTができません。そのため、私は「学びて時にこれを習ふ」ことをいつも強調しています。聖書通読はもちろん、人物別、主題別の聖書の学びを通して知識を積み重ね、それらを土台にして聖霊様に導かれる黙想過程を加えるなら、生きたみことばが私たちに迫ってくるでしょう。聖霊様が感情と理性を完全に導かれるなら、私がみことばをつかむのではなく、みことばが私をつかむ、「成熟した黙想段階」に入ることができるのです。
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