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マタイの福音書の恵み 81
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網にかかってもすべて捕るわけではありません |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
「また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める 地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、 良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです」(マタ 13:47~48)
マタイの福音書13章には、天の御国に関する7つのたとえが出てきます。イエス様は、そのたとえを簡単に話されましたが、内容を分析してみると、たとえの全体が、組織的で完璧な天の御国の様子を描いています。イエス様は、私たちがよく理解することも経験することもできず、説明するのが最も難しい天の御国について、日常生活で経験することを通して教えてくださいました。 ここに驚くべき真理があります。それは、天の御国は、遠くにある幻想の世界ではなく、人が畑を耕したり、漁をするというような、現実的で具体的な生活の中から始まるということです。信仰に目が開かれた人は、幻想の世界に入っていくのではなく、実生活の中で信仰を適用しはじめるのです。ですから、信仰は実際的なものです。信仰は、逃避ではなく、現実に入っていくものです。霊的な目を開くと、自然と超自然が一つであることに気がつきます。それらは区分されていません。食べる、寝る、職場で働く、子どもの面倒を見る、料理するといったような、具体的な生活の中から天の御国が始まるのです。 最も愚かなのは、現実を捨てて信仰生活をする人たちです。信仰は、実生活に根を張って成長するものであり、天の御国はそこから始まります。パウロは「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」(ロマ 1:20)と言っています。私たちはイエス様のたとえを通して、この実際的な天の御国の信仰を持たなければなりません。
神の網にかかった人々 イエス様は、なぜ天の御国を魚を集める地引き網にたとえられたのでしょうか。この魚を捕る方法をよく探ってみると、そこに驚くべき御国の姿を見いだすことができます。 第一に、神様がご自分の民を選び、導かれる姿は、漁師が網をおろして魚を引き上げるようなものであることがわかります。ここで私たちは、神様の積極的な意思を垣間見ることができます。神様は、ご自分の民を捜されます。神様が網を打ってご自分の民がご自分のもとに戻ってくるように導かれるのです。ここに神の愛があり、神の選びがあります。選ばれることなく救われた人はいません。私たちは、願おうが願うまいが、神の網にかかった者たちなのです。神の網にかかった人々が天の御国を所有することができます。神に対して疑いが生じ、葛藤が生じたなら、それ自体がすでに神様に選ばれたという証拠なのです。 神様の私たちへの愛は、積極的な意思によるものです。傍観的、受動的に愛されるのではありません。神様は、ひとり子なるイエス様を十字架につけて死なせるほどに、私たちを愛してくださいました。神の網にかかった人は、時間の差があるだけで、いつか神の胸に抱かれるようになっています。これが「天の御国は、海におろして……あらゆる魚を集める地引き網のようなもの」だというみことばの真意です。
だんだん引き上げられる網 第二に、いったん網にかかった魚は、漁師の手に捕らえられるということです。魚が網にかかれば、漁師はその網をだんだん引き上げていきます。そして、ついに魚が漁師の手に捕らえられます。これは、何を意味するのでしょうか。歴史は、無限で永遠に続くものでも、巡り巡ってくる輪廻的なものでもないという意味です。歴史とは、歴史の主人であられる神様によって治められ、導いていかれるものであるという意味です。 網の中にいる魚は、もはや思うように泳ぐことができません。ただ運命の時を迎えるために待つしかありません。神様は、歴史の網を握りしめ、ご自分の時に従ってそれを引き上げられます。だれも永遠に生きられず、人のいのちを永遠に延長することもできません。ヘブル人への手紙に「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブ 9:27)とあります。歴史を治めておられる方、歴史の審判者、歴史の創造主が、ご自分の歴史を引き上げられるとき、人は身動きの幅が小さくなります。初めは自分勝手に動いていますが、神様がその愛の網を引き上げるにしたがい、だんだん身動きが取れなくなるのです。 網を海から引き上げると、中にいた魚が姿を現します。大きな魚と小さな魚、使い道のある魚と使えない魚がみな現れて、魚がバタバタしているのを目にします。神の御手につかまれるとき、歴史の終末が近づくとき、世にはさらに苦しみが増し、同時に善悪が明らかになります。善人と悪人が区別されはじめるのです。これが、神の方法です。
避けられない燃える炉のさばき 漁師、つまり歴史のさばき主が歴史の網を引き上げると、その次はどうされるでしょうか。それがまさに、歴史の完成であり、歴史の終わりの日に成し遂げられる現象です。 「網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです」(マタ 13:48) これは、毒麦のたとえの中で、収穫の時期になると、農夫が麦と毒麦をより分けて、麦は集めて倉に納め、毒麦は焼くために束にする、という内容と同様の意味です。さばきの時に、神様が良い魚と悪い魚を分けられるというのです。適当に生きて死ねば終わり、というのではありません。私たちが生きてきたとおりにさばかれます。正しい人も悪い人も、それぞれの歩みに従ってさばかれます。救われた者には救われた者のさばきがあり、救われていない者には救われていない者のさばきがあるのです。 「この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです」(マタ 13:49~50) このみことばを見るたびに、私は恐れ震えます。事実でなければよいとさえ思います。しかし、残念なことに、それはすべて事実です。認めたくなくても、このみことばは聖書にはっきりと記されているのです。 その日には、火の燃える炉に投げ込まれて、そこで泣いて歯ぎしりすると言われました。これは、正しい者のようにふるまってきた人も、その日には神の目を避けることができず、悪い者がより分けられるという意味です。イエス様を長い間信じ、きよいふりをしていても、神様はだまされません。だれも例外なく、その日にはさばきを受けます。その日には、立ち返る時間がありません。それが歴史の終わりであり、さばきの時です。
中間地帯のない神のさばきの座 10年後の私たちは、どうなっているでしょうか。それはだれにもわかりません。私たちの終わりの日、歴史の終わりの日があり、その時に私たちが神のさばきの座に立つということを、きょうのみことばが教えてくれています。さばきの座に立つと、どんなことが起こるでしょうか。羊か山羊か、麦か毒麦か、良い魚か悪い魚か、良いしもべか悪いしもべか、賢い娘か愚かな娘かに分けられます。 神のさばきには、保留はありません。ただ一度だけ行われます。そこには立ち返る時間も、悔い改める時間もありません。また、さばきの座には、中間地帯もありません。神の側かサタンの側か、二つに一つです。悪者は火の燃える炉に投げ込まれ、泣いて歯ぎしりすることになります。 まだチャンスがあります。終わりの日が来る前に備えなければなりません。きょう私が神のさばきの座に立つとしたら、神の側に立つという確信がありますか。イエス・キリストを信じて神の子とされた私は、喜びと栄冠が与えられるという確信がありますか。今こそ、目ざめるべき時であり、恵みの時であり、救いの日です。時間があるから、若いからといって、時をむだに過ごしてはなりません。今すぐ決断しなければなりません。
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