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マタイの福音書の恵み 80
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持ち物を全部売り払い高価な真珠を買いなさい |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払って それを買ってしまいます」(マタ 13:45~46)
きょうのみことばのたとえを理解するためには、古代世界での真珠の価値について考えてみる必要があります。当時の人々にとって、真珠はほかの宝石よりもすぐれた価値がありました。金や銀、ダイヤモンドなど、ほとんどの宝石は人工的な加工が必要です。しかし、真珠はそれ自体がすでに完成品です。完璧な美的価値をすでに備えているのです。その当時は、今日のように人の手で真珠を養殖していなかったので、真珠を手に入れることは実に尊いことでした。そのため真珠は、単なる財宝以上の、芸術的な価値を持った宝石として見られていました。ところで、真珠商人は、ふつう真珠を売買しながら利益を残す人です。しかし、きょうのみことばは、真珠商人が完璧な真珠を見つけたとき、それを売って利益を残そうとするのではなく、その真珠を所有しようとしていることを強調しています。 天の御国を所有した人の喜びと感激 この世に一つしかないもの、最も美しい真珠を所有することには、いくつかの意味があります。第一に、それを所有した人に、何ものにも代えがたい喜びと満足感を与えます。美術品のコレクターが、多大な代価を支払ってピカソやレンブラントの絵を手に入れたとしたら、その人の自負心と満足感はとてつもないことでしょう。世で最も美しい真珠を手に入れた人の心とは、そのようなものだと言えます。 尊い真珠を見つけた人は、想像を越えるような歓喜、自分の生涯の偉大な目的を達成したかのような感激を味わったことでしょう。これがまさに、天の御国を見いだした人が持つ満足感、自負心、言葉にも表せないほどの喜びです。その人は、天の御国を見いだした瞬間、世を得たかのように喜ぶのです。 また、すばらしい値うちの真珠を手に入れたというのは、王や王妃になったことを意味します。そのような真珠は、王や王妃の冠の中央にはめるものです。そのような意味で、このすばらしい値うちの真珠は、その人の身分や位置を表すしるしとなります。真珠を見つけた人のように、イエス・キリストを見いだした人、天の御国を見いだした人は、自分の所属や身分を明らかにすることができるのです。
それ自体で完璧な御国 第二に、天の御国は、最高の価値を備えた真珠のように、それ自体に完全で絶対的な価値があります。先のいくつかの御国のたとえを通して、天の御国は私たちに完成品として与えられるものではないということを学びました。 天の御国は、種が蒔かれ、そこから芽が出て育ち、百倍、六十倍、三十倍の実を結びます。つまり、天の御国は成長するものです。また天の御国は、毒麦のたとえのように、サタンの勢力と共存するということも学びました。また、天の御国は、からし種のたとえのように、非常に小さなところから始まり、想像もできないほど大きくなります。それだけでなく、パン種のたとえのように、私たち自身だけが変わるのではなく、私たちが生きている周りの環境や、この世を変えるということも学びました。 しかし、高価な真珠のたとえから教えられることは、天の御国は、私たちにおいては成長し、発展するものですが、神様においてはすでに完成されたものだということです。ですから、私たちのうちにある神の国は、すでに成し遂げられた神の国まで成長していくのです。天の御国は、私たちのうちで成長します。キリストとともに成熟し、広がり、奇蹟を起こします。しかし、私たちが世を去るとき、私たちは天の御国に完全に住むことになり、その完璧な御国を目にすることになるのです。
求め、捜し、たたきなさい 第三に、天の御国を所有する方法について学ばされます。畑に隠された宝のたとえのように、天の御国は期待していなくても見つかる場合があります。苦労もなく、主に出会う人もいるのです。ところが、それは私たちにとっては偶然に見えても、神様にとっては必然です。私たちを救うために、2千年前に十字架で死なれた主は、今まで私たちを待ってこられました。いずれにせよ、私たちは神様の恵みにより、何の苦労も代価もなく、福音の中に入ったのです。 しかし、真珠のたとえは正反対です。真珠の商人は、心の中でいつも「私の生涯で、世で一つしかない最もすばらしい値うちの真珠を見つけたい」と考えていました。それで、あちこち巡り、良い真珠があるという所はすべて捜して回りました。ある人は、キリストの真理に至るために求道者としての人生を生き、真理にたどり着くまであらゆる苦労をするのです。 天の御国は、このように苦労し、努力して捜し、たたくうちに、ついに見つけた宝石のようなものです。私たちは、自分の真珠、永遠の救い主を捜すために、どれほど努力しているでしょうか。どれほど真実な心で聖書を読み、ひざまずいて祈り、主に出会うことにを心から求めているでしょうか。 一つの偉大な発見のために、科学者は何度も実験し、試行錯誤をくり返します。そして、ついに新しいものを発見します。イエス・キリストに出会うためには、時間を投資しなければなりません。聖書を一、二回通読したからといって十分なのではなく、先入観をなくし、子どものような心で主の前に立つなら、だれでも真珠のようなイエス様に出会うでしょう。
絶対的な価値の御国 第四に、天の御国は、何ものにも代えられない絶対的な価値のあるものです。聖書を見ると、真珠の商人がすばらしい値うちの真珠を一つ見つけたとき、持ち物を全部売ってそれを買ってしまったとあります。イエス・キリストに出会うということは、このようなことです。世に多くの真珠がありますが、最も美しく、完璧で、最高の値うちのある真珠は一つだけです。 ある人は、救いの感激と喜びを得るまで、実に血のにじむような人生を通過します。死の病にかかって主に出会う人もいます。その人は、死の病にかからなければ、イエス様に出会うことができない傲慢な人です。ある人は、事業に失敗して、またある人は家庭や個人の深刻な問題に直面し、苦しみの暴風雨に遭ってはじめて、イエス・キリストに出会います。 イエス・キリストに出会った時は、すべてのものを失った時かもしれません。健康な時は主に出会うことができず、病気になって出会い、お金がある時は主に出会えず、お金を失って主に出会います。 しかし、私たちがどんな代価を払ってこの場に来たとしても、天の御国を見いだしたなら、それまでのどんな労苦も、どんな代価もすべて報われるのです。ですから、私たちの労苦は、値打ちのあるものです。イエス様を救い主として受け入れ、永遠のいのちを得たなら、そのために払った代価や犠牲は何でもないのです。 私たちは、献身しながらも世を捨てるかどうか葛藤することがありますが、真珠を見つけた人は、惜しむことなく世を捨てました。理由は、それが天の御国だからです。私たちが今でも世に未練が残っているのは、キリストを見いだしていないからです。言葉ではわかっていても、心に実感がないのです。 パウロは「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです」(ピリ 3:7~9)と告白しました。私たちも、このように告白しなければなりません。子どもも財産も大切です。名誉や成功も大切です。しかしそれらは、キリストと代えられるものではありません。尊く思っているすべての相対的な価値を、パウロのように捨てる祝福が、私たちにも注がれますように。
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