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マタイの福音書の恵み77
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[マタイの福音書 13章31~32節] |
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からし種ほどの信仰が 御国の実を結ばせます
オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。 「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、 空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります」(マタ 13:31~32)。
からし種のたとえの核心 ある人が自分の畑に非常に小さなからし種を蒔きました。ところが、この種が生長すると、驚いたことに木になりました。木になって枝が広がり、多くの鳥たちが来て巣を作るほどになりました。これが天の御国です。 からしの木は、人が馬に乗ったときの高さより少し高いくらいだそうです。からし種はふつう約3.7~4メートルの高さに生長しますが、そこに多くの鳥が巣を作るというのです。 では、このからし種のたとえの要点は何でしょうか。天の御国は、すぐには大きくならないということです。御国は不思議の国ではないということです。また、御国は非常に小さなことから始まりますが、その終わりはだれにも想像がつかないということです。エゼキエル書に「その小枝には空のあらゆる鳥が巣を作り、大枝の下では野のすべての獣が子を産み、その木陰には多くの国々がみな住んだ」(エゼ 31:6)というみことばがあります。これは、天の御国は非常に小さく始まりましたが、結局、最後にはすべての国が集うことのできるほど、大きな国となるということを示しています。同時にそれは、御国の象徴である地上の教会は、非常に小さく始まりますが、後には全世界に拡がって満ちるようになるということを説明しています。これが、からし種のたとえの核心です。
偉大なことは小さなところから始まる ここで、私たちはいくつかの真理を学ぶことができます。第一に、天の御国は小さく始めて大きく刈り取るということです。人々は偉大さに対しておかしな幻想に捕らわれています。ある人は「人類を愛する。人類のためだ」と言います。しかし、人類を愛するという人が、道すがら出会う物乞いを愛しません。自分の横にいる妻でさえ愛することができないのに、国民を愛すると叫びます。自分の家族は放っておきながら、教会を愛すると言います。その愛は錯覚です。最も偉大なことは、大きなところから始まるのではなく、小さなところから始まるのです。 イエス様は、非常に小さなことに忠実な者が大きなこともするようになると言われました。私たちは、人に見られないこと、人々が神経を使わないこと、プライドが傷つくようなことをしなければなりません。そういう意味で、大きな教会に仕えることは簡単ですが、小さな教会に仕えることは難しいのです。 イエス様は、非常に小さなところにおられます。多くの人々の間ではなく、だれもいない寂しい所におられます。これがイエス様の御心であり、方法です。イエス様は、ひとりのやもめのレプタ銅貨2つを祝福されましたが、金貨の音をジャラジャラと立てる人には、全く関心をもたれませんでした。ふつう、人々は、地位が高く、世間的に立派な人、見た目が大きく、華やかで良いものを高く評価します。しかし、天の御国の世界はそうではありません。イエス様はまた「この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら」、それはイエス様にしたことと同じだと言われました(マタ 10:42)。世から顧みられず、関心も持たれない小さな者に水を一杯飲ませることは、イエス様にすることだと言われたのです。ここに真の御国の意味があります。 私たちは、一流の大学、だれもが認めるような会社に入ろうとします。意味のあることには時間をささげますが、取るに足らないことには時間をささげません。それは、どれほど天の御国とかけ離れた歩みでしょうか。ですから、心に天の御国がないのです。貧しく、病み、冷遇され、忘れられた人々に対して関心を向けることから天の御国が始まるのです。 初代教会の始まりは、どれほど微々たるものだったでしょうか。110名から始まった初代教会の信徒たちは、迫害の中であちこちへと逃げ回り、投獄され、獅子に食べられました。しかし、激しい迫害や苦しみを受けながらも、初代教会は雑草のように成長し、3千人が集まるほどになり、男性だけでも5千人が集まるようになりました。その数は、最後には数え切れないほどでした。これが天の御国の方法です。 私たちがどれほど成長するかは、だれにもわかりません。私たちは、想像もできない生涯を送ることになるでしょう。自分のような頭脳、自分のような健康状態、環境の者に、想像もできないような生涯を送らせる力を与えるのが、まさに天の御国なのです。 「あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる」(ヨブ 8:7)。私たちは、小さな仕事をしているからといって、ため息をついたり、小さな仕事を任されたからといって、無視されたと考えたりしてはなりません。小さな仕事を任された瞬間、私たちは天の御国を味わう機会を得たのです。非常に小さな仕事を任された人に、天の御国の奇蹟が起こり始めるのです。
天の御国はたゆまず成長するもの 第二に、からし種のたとえから学ぶことは、天の御国は静かに、しかし限りなく成長するということです。天の御国は、決してすぐには成長しません。ある人は、きょう突然、異言を受け、驚くほどの恵みを受ければ、その翌日には特別な使命者にでもなったかのように考えます。しかし、信仰はそのように成長するのではありません。神のことばは、目に見えないところで、自分の中で継続して働き続けるのです。幼かったイエス様が、知恵が進み、背たけが大きくなったように、私たちも徐々に霊の人へと変えられていくのです。神のことばが私たちのうちにあれば、目には見えなくても、私たちは限りなく変化し、成長していきます。 ですから、クリスチャンは過去に執着しません。私たちは決して過去の人ではありません。きょうが重要であり、成長することが重要なのです。日々古い人と過去を、脱皮するように脱ぎ捨て、新しく生まれ変わるのです。 では、成長と変化の最も重要な原動力は何でしょうか。それは、いのちです。からし種の中にはいのちがあります。天の御国は、成長と変化を起こす、いのちのある所です。いのちは死をのみ込み、無を有にします。いのちのある所には、絶望もやみも存在しません。あなたのうちにイエス様のいのちがありますか。それならば、私たちのうちで、イエス様のいのちが成長するのです。目には見えず、感じられないときもありますが、常に止まることなく成長し、そして森になるのです。 天の御国は、すくすくとは成長しません。その成長の過程は、目に見えません。いつも静かに成長します。植物を見てください。昼間、太陽をたっぷり浴びて、夜の間に静かに成長します。成長と変化は、毎日毎日少しずつ、しかし止まることなく起きていることなのです。 一度に変わらないでいる自分に失望しないでください。目につく変化がないからといって、変わらないと断定しないでください。私が今、教会に通っていることも大きな変化です。みことばを聞いているという事実も、驚くべきことなのです。 私たちは、お金ですべての価値を計算するのではなく、お金で計算できない価値を悟るようになります。世からあざけられることのために一生をささげる者へと変えられる人もいます。それが、天の御国が成長している証拠です。天の御国には、いつも豊かな実があります。種とは比べものにならない多くの実です。大きく育った木にいのちが宿り、鳥たちが巣を作ります。これがイエス様が説明された天の御国です。小さなことに関心を持ち、小さなものを蒔かなければなりません。しかし、小さいからといって決して失望しないでください。天の御国はそこから始まるのです。
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