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マタイの福音書の恵み72
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[ マタイの福音書 12章46~50節 ] 御国の家族として召された私たち |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。 「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。 天におられるわたしの父のみこころを行う者は だれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(マタ 12:49~50)。
最も理解され、愛されるべき人から拒まれ、誤解を受けるときほど、つらいことはありません。きょうの個所では、イエス様が母親と兄弟たちから誤解され、信頼されていない様子が描かれています。 「イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた」(マタ 12:46)。 このとき、イエス様の母と兄弟たちは、イエス様を理解し、励ますために来たのではないことが、前後の文脈からわかります。彼らは、イエス様の働きを妨げるために来たのです。ここで、イエス様の母と兄弟たちのうち、特に推測できる人物は、母のマリヤです。 マリヤはどんな人でしょうか。イエス様が働きを始められたとき、イエス様の神性を認めています(ヨハ2章)。それだけでなく、イエス様を胎に宿したのは聖霊によるということを、だれよりも知っていました。それなのに、ここでマリヤは、イエス様に対して信仰的な目ではなく、人間的な目で見ています。 この部分は、ペテロが、十字架を負おうとされるイエス様に「主よ、とんでもないことです」と言っていさめた場面と似ています。これは、人間的に見れば忠誠であり、献身ですが、信仰的に見れば神様の摂理を妨げることでした。このとき、イエス様は態度が急変して「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(16:23)と言われました。ここで、サタンがとても狡猾に攻撃しているのを見ることができます。 パリサイ人と律法学者を通してなされる批判と攻撃は、簡単に見分けることができます。つらく、大変なことですが、それは目で見える攻撃です。しかし、家族や忠実な人を通して神様の御心を無にさせるようなことは、とても狡猾な攻撃です。人々は、時々このような霊的な試みを受けることがあります。それは、その人のためのように見えても、究極的には、その人を見捨てるようにさせます。 イエス様は、このような霊的な試みに対して、賢く判断され、次のように答えられました。「…『ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。』しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。『わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。』それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。『見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです』」(マタ 12:47~50)。 これは、イエス様が家族や母親を無視し、退けたのではありません。では、「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟とはだれですか」とは、どういう意味でしょうか。ここには、重要な意味が含まれています。 第一に、神の国の家族は、人間関係の上に立てられるのではないという真理です。この世の国は、すべてが人間関係から始まります。血縁や地縁、同窓などの関係を通して社会が形成されます。どんなに理念の強い集団だとしても、このような人間関係のつながりを避けることはできません。 しかし、イエス様は、神の国はこのような人間関係によって結びつくものではないことを示しておられます。イエス様は「さらに、家族の者がその人の敵となります」(マタ 10:36)と言われました。これは、ある意味においては真理です。血縁や地縁、同窓などの関係は重要です。しかし、それは世での人間関係にすぎず、神の国では何の意味も持ちません。 では、神の国の基礎は、どこに根拠を置くのでしょうか。霊的な関係から神の国の家族が始まります。これが、イエス様のことばに含まれた第二の教えです。初代の信徒たちは、次のように言いました。「クリスチャンの唯一の親戚は、信徒です。信徒たちが私たちの家族であり、親戚です。」ヨハネの福音書を見ると、イエス様の兄弟について「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」(ヨハ 7:5)とあります。イエス様の兄弟たちは、イエス様を信じていなかったのです。だからといって驚く必要はありません。それこそ血縁の限界だからです。実際、家族とは、最も近い関係でありながら、敵にもなりうる関係です。この世に兄弟同士が争い、憎み、敵になった人はたくさんいます。ですから、神の国は、このような人間関係の構造に基礎をおかず、霊的な関係から家族が形成されるのです。 では、霊的な関係、霊的な基礎からなる神の国の家族たちの態度は、どうあるべきでしょうか。イエス様は、ひと言で定義されました。 「天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(マタ 12:50)。血を分けた人ではなく、神の御心に従って歩む人が、神様の家族だということです。「親が祈ってくれるから、私は天の御国に行くことができるだろう」などと考えてはならないのです。人間関係の基礎が神の国の基礎ではないからです。私たちは、自分の信仰を持たなければなりません。世で夫婦がいっしょに暮らし、神の国までいっしょに行くなら、それ以上良いことはないでしょう。しかし、世の人間関係は、神の国の関係ではないのです。 第三に見いだせる驚くべき真理は、神の国の家族はだれかということです。「それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。『見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです』」(マタ 12:49)。「見なさい」の原文は感嘆詞です。神の国の家族は、イエス・キリストの弟子として生きていく人々なのです。これは驚くべきみことばです。 この真理は、霊的なすべての領域で、みな成し遂げられます。イエス様を信じれば、神の国の概念も変わります。以前は親しかった友だちが、親しくなくなります。真の友情は霊的なところから始まります。霊的に結ばれた友情は、説明できないほど、深く味わい深いものです。同様に、真の夫婦は、霊的に結ばれた夫婦です。ひとりはイエスを信じ、ひとりは信じていない夫婦は、霊的に一致していないので、葛藤が多くなります。 それだけでなく、霊的なものが基礎になった学問は違います。霊的なものが基礎になった文学、音楽、美術などの芸術の世界においても、根本的に世のものとは違います。霊的に結ばれたものは、何であっても、世のものと代えることのできない高い価値があります。 このように、霊的な家庭は重要なので、霊的な家族同士が傷つけ合えば、傷もそれだけ大きくなります。なぜなら、それは霊的に生じたことだからです。それで、イエス様を信じる者は、互いに気をつけなければなりません。私たちは、キリストにあって兄弟姉妹になった者たちです。イエス様が教えてくださった真理がここにあります。だれが自分の母であり、自分の兄弟ですか。父なる神様の御心のとおりに生きようとする者が、みな兄弟姉妹であり、家族なのです。 教会にちょっと来て、さっと帰っていく人は、かわいそうな人です。みことばを聞く恵みも重要ですが、神の国の家庭の交わりの権利を味わわない人は、本当にかわいそうです。ですから、区域礼拝に出席しなければなりません。世のだれが、互いに祈り、心配し、愛してくれるでしょうか。夜中の12時になっても別れがたいのは、御国の家族だからです。 私たちは、御国を味わって生きる者たちです。一つの目的、一つの方向性、一つの夢を持って生きる者たちです。主が私たちにゆだねてくださった大宣教命令を成就するために集まった者たちです。ですから、イエス様のように愛さなければなりません。兄弟が過ちを犯しても赦してあげ、批判しないようにしなければなりません。私たちは家族なのです。キリストにあって、私たちは一つの血を受け、一つのからだとされた者たちなのです。
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