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マタイの福音書の恵み70
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[ マタイの福音書 12章30~37節 ] 霊的な中立を避けなさい |
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オンヌリ教会 前主任牧師 故 ハ・ヨンジョ
「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」(マタ 12:31~32)。
イエスが、悪霊のしわざで目が見えず、ものを言えなかった人をいやされた時、それを聖霊のみわざとして受け入れられず、ベルゼブルの力を借りたのだと解釈した人々がいました。パリサイ人たちです。なぜパリサイ人たちは、神の御霊のみわざを悪霊のわざだと解釈したのでしょうか。 イエスは聖霊のみわざをサタンのわざだと言う人々の心をご存じでした。それで、論理的に一つ一つ彼らの考えに対し反証していかれました。そして、とても重要なことを言われました。 「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です」(マタ 12:30)。このみことばは柔らかく聞こえますが、実はとても恐いみことばです。イエスは、ほかのことに関してはとても穏やかですが、悪霊に対しては断固とした立場を取られます。このみことばの意味は、霊的な戦いにおいて、中立的な態度はありえないという意味です。 ルカの福音書9章49~50節を見ると、イエスの弟子でない人がイエスの名で悪霊を追い出しているのを見たイエスの弟子が、悪霊を追い出すことをやめさせましたが、イエスは「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方です」と言われました。多少の意見の対立に対しては寛大に受けとめられ、イエスとともに歩む弟子でなくても、イエスの名で悪霊を追い出すことは許されました。しかし、イエスは、サタンとの戦いにおいては、厳格な立場を取られました。 イエスは「わたしの味方でない者」「わたしとともに集めない者」はみな、サタンかサタンの手下のような者だと言われました。ここに二種類の人がいます。イエスの味方である人、イエスとともに集める人もいれば、イエスの味方でない人、散らす人もいます。分裂をさせないように努力する人がいる反面、どの集いでも、いつも散らす人、批判する人がいます。霊的な世界では、優柔不断な態度はありえず、明らかな立場がなければなりません。「あなたはわたしとともに集める者か、それとも散らす者か。あなたの人生のいろいろな姿は、どちらの立場に立っているのか」とイエスは問われます。 そして、イエスは強く、恐いみことばを与えられます。「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」(マタ 12:31~32)。 このみことばで、まず考えるべきことは、すべての罪は赦されるということです。預言者イザヤは、私たちの罪がどんなに赤くても、雪のように白くなると宣言しています(イザ 1:18)。「赤くても」ということばは「私たちの罪がどんなに大きかったとしても」という意味です。どんなに深く大きな罪も、天におられる神のあわれみと愛は、それよりもはるかに大きいというのです。しかし、赦されない罪が一つあります。それは、聖霊に逆らう罪と、聖霊に逆らうことを口にする罪です。実に理解しがたい部分です。なぜイエスはこのような罪は赦されないと言われたのでしょうか。 別の福音書では「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」(マコ 3:28~29)とあります。これは、故意に聖霊に逆らう罪のことで、イエスに逆らうこととは別のことです。イエスに逆らっても赦されますが、聖霊に逆らうなら赦されません。なぜそれが、それほど大きな罪なのでしょうか。それは、イエス・キリストの福音と救いを受け入れるようにさせるのが、まさに聖霊のみわざだからです。 私たちは、いろいろな感情や誤解のために、イエスを信じられないことがあるかもしれませんが、聖霊のみわざがあれば受け入れることができます。しかし、聖霊のみわざに逆らえば、イエス・キリストを受け入れる道が閉ざされてしまいます。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリ 12:3)、「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです」(Ⅰテサ 1:5)とあります。これは、知識の問題ではありません。私たちが信仰を持つようになったのも、救われたのも、聖霊のみわざによるのです。しかし、意図的に、悪意に満ちた態度でこのような聖霊のみわざに逆らうなら、救いの道は閉ざされ、救われる機会は永遠になくなってしまうのです。 イエスは「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです」(マタ 12:33)と言われました。悪い木が良い実を結んだとか、良い木が悪い実を結んだなどと言ってはならないという意味です。つまり、神の御霊の聖いみわざを見ながらも、無理やりそれをサタンのしわざだと言ってはならないというのです。自分自身も理解できない強情な心、間違っているとわかっていながらも曲げない心が問題です。 しかし、いけないとわかっていても、私たちは罪を繰り返してしまいます。人はだれでも、心にあるものを、そのまま口にするようになっています。心の中に悪しき心を持っていても、そうでないように装います。しかし、いつかその思いが、必ず口に出て、行動に移る時が来るのです。 ですから、行動を直すのではなく、心を直さなければなりません。心から悪い考えがなくならなければ、どんなに抑えようとしても、断食したとしてもむだなのです。今この瞬間、自分の心を根本的に変える決心をしてください。悪い考えがあるなら、口で告白して、すぐに悪い行動をやめられるよう、聖霊の助けを求めてください。 知性というものは、罪の前では役に立ちません。心から根本的に罪を取り除かなければなりません。また、聖霊のみわざに逆らう高慢、自尊心、人間的な考えがあるなら、今この瞬間、断ってしまわなければなりません。神は、この部分に対しては、はっきりとしておられます。 決定は、私たちの手にかかっています。今、私たちが何を決定するかによって、正しいとされるか、罪に定められるかが決まるのです。今、「主よ、私は聖霊のみわざを受け入れます」と告白しましょう。自分の人生があるのに、突然、どうやって変わるのかなどと言ってはなりません。聖書は「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです」(マタ 12:37)とはっきりと言っています。今までためてきた憤りや罪を解くこともできれば、さらに強情になることもできます。しかし、ここで解くなら、愛、赦し、神の恵みの人生へと移されていきます。突然すべてのことが成し遂げられるというわけではありません。しかし、この瞬間からでも罪をやめなければなりません。サタンのわざを止めなければなりません。主をあがめ始めると、とてつもない奇蹟が起こります。 今、この瞬間、神が私たちに機会を与えてくださいます。神は、私たちを赦したいと願っておられます。過去を問われません。ご自分の子としたい、私たちの手を握りたいと願われ、すべてのものを与えたいと願っておられます。神は私たちを待っておられます。私たちがまむしのすえとならないよう、祈っておられるのです。機会を与えてくださる神に感謝して、受け入れましょう。
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