日本CGNTV「特別座談会」より
今回、日本CGNTVでは「神学のある牧会、健康な教会」というテーマで座談会を企画しました。 国分寺バプテスト教会の米内宏明先生を司会に招き、東京聖書学校副校長の深谷春男先生、東京基督教大学学長の小林高徳先生、神戸改革派神学校前校長の市川康則先生、中央聖書神学校校長の北野耕一先生の4名の先生方からお話を伺いました。
今活かされている神学校での学び 深谷先生 私が神学校に入ったのは1972年。1970年に日本基督教団は70年安保をめぐって、大きく揺れている中、私も日本基督教団の問題提議者となっていましたが、洗礼前から読んでいた、内村鑑三や矢内原忠雄先生方の書物を通して「自分の生涯を神様にささげて歩みたい」という思いになりました。神学校の学びの中で「われらの立つべき所は聖書である」という思いを与えられました。 小林先生 大学を卒業後、都内の高校で教鞭を取っていましたが、みことばを学生たちに直接伝えたいという思いが強くなり、東京基督神学校に入りました。神学校の学びで一番大事だと思うのは、ギリシャ語とヘブル語です。みことばに原点から取り組み、それを伝えていく大切さを教えられました。また、神学校で学ばされたことの中で一番大きなことは、自分の限界と弱さを知り、その弱い自分と向き合うことの重要さでした。 市川先生 小さい時から死に対する恐怖に苛まれていましたが、大学で超教派の伝道団体に出会って回心し、それから死の恐怖を感じたことは一度もありません。当時は普通に就職しようと思っていましたが、宣教師の勧めをきっかけに神学校に入りました。そして、神学校で学んだことを最も効率的に用いることができる所に行きたいと思い、牧師になりました。留学から戻って22年間、神学校で教えることになり、福音をより深く知り、また学生とともに生かされる体験をさせていただきました。」 北野先生 神学校3年生の時、校長から礼拝説教を頼まれました。その頃、私は伝道に燃えており、説教ができるので意気揚々としていました。しかし、ある朝私が講壇に立った時、ある紙が置かれていました。「牧師、パンを投げてこれを喰らえ、という。伝道師、パンを投げてこれを喰らえ、という。イエス、近寄りて、パンをさき、ともに食せん。」今まで思い上がっていた私は、神の霊によって打たれました。説教とは会衆に寄り添うものでなければならない、これは今でも私の中で生きています。
メッセージの準備・説教を語る難しさ 市川先生 私が気をつけていることの一つは、「説教は、それ自体が牧会行為である」ということです。どれほど会衆をよく知っているかということと、どれほどわかりやすい説教であるかということは、深く結びついています。聖徒一人一人と個人的に交わり、その方の必要を知り、皆さんの現実に届きやすいような説教をしようと心がけています。 深谷先生 聖書を研究し、みことばを一つ一つ読んでいくことは、大変恵み深く、説教の準備が終わる頃には天にも昇るような気持ちでした。聖書の丁寧な解釈・釈義を神学校で学びました。しかし、神学校で学んだ釈義のみの説教は、会衆には受け入れられませんでした。随分悩む中で、自分の生活と霊的な状態を釈義と合わせながら語ることを教えられました。
教会を支える献身者不足 小林先生 キリスト教的世界観を持ち、さまざまな課題に対応するトータル的な人格を形成する視点が必要です。少人数の教会には、なかなか若者が集まるのは難しいので、できれば同年代の方が集まり、互いに助け合い、成長し合う場を作ることが望ましいでしょう。若者が自分たちの課題に向かい合う中で、将来のリーダーが形成されていくのではないかと思います。
教会形成、全体に対して 市川先生 大切なのは、「神が私をこの務めに召しておられる」という召命感です。主の御心を、妥協しないで行う一方、自分がしたくなくても、しなければならないことがあります。それは多くの場合、ほかの人の要求されたときに生じます。神が召しておられる限り、必ず賜物を与えてくださいます。人々が何かを求めてくるとき、その中に神の御心をくみ取る感覚を養うなら、その働きの中で神にある喜びを体験できるでしょう。
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