人種差別ではありませんが、人の容姿で、何らかの評価を得て、扱いをされるのが、外国人として海外で生きる特別な試練でもあり、恵みでもあります。私が寂しさを味わうことがなかったなら、「ナザレ人イエス」と言われた主の思いの一かけらもわからなかったでしょう。また、主が教えてくださったことを、素直に実行しようとも思わなかったはずです。 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。…あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。…兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか…』(マタ 5:44~47、口語訳)。「私はまだ、主が教えのように、私に嫌なことをする人のためには祈れないけれど、挨拶ならできる!返事が返ってこなくても、その時は、神様がお返事してね!」と、だれにでも元気よく笑顔で挨拶する決心をしたのを鮮明に覚えています。それから10年以上過ぎた今、“Buon giorno!(おはよう、良い一日!)”というあいさつを、たくさんの人からいただき、笑顔のなかった方からも、手を上げて笑顔で挨拶してもらえるようになりました。どんな言語でも、心からの言葉、神様とともにある言葉には、人を変える力があるのだと思いました。 老舗の帽子屋で働いて15年。最初の頃、「外人の若い子に作られるのは気が進まないわ」と言われていた20代。「どうしたら信頼されるのだろうか」と悩んだ日々。それは今でもある試練です。しかし今、神様から再び問われています。「インマヌエルのわたしがともにいる。それを信じられるかい。」私は、私の中に住まわれる主を、子どものように信じると決めました。今では、お店の扉が開くたびに、私ではなく聖霊様が語り、私の中におられる主が知恵を与え、良き通り管として用いてくださいと、主だけに頼る心が与えられています。 職人としての技術は成長し、本来なら傲慢になりうる私を、主は、祈らなければ、インマヌエルの主がともにいなければ、成し遂げられないと思えるようしてくださいました。ハレルヤ!私が、主のもとから離れないように、可愛い娘を特別に愛するがゆえに、与えてくださる一つ一つの試練にも感謝します。 祈れる心が与えられた外国人である恵みに感謝して。
遠藤まこ Ι 海外定期購読者
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