ユ・ユンジョン Ι 韓国ピョンテク大学 旧約学教授
「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るベのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける」(ゼパ 3:12)。 ゼパニヤという名は“主が隠される、主が守られる”という意味です。主は何を、また、だれを守られるのでしょうか。12の小預言書の中で、バビロンの侵攻と南ユダの滅亡について直接触れた書は、ほかにありません。この書の独特な点は、主がさばかれる「主の日」が来ることを預言し、そのさばきに備えるよう勧めていることです。 歴史的にみると、ゼパニヤの預言どおり、南ユダはバビロンによって滅び、民は捕虜として連れて行かれます。ゼパニヤ書の次のハガイ書には、帰還したユダの民に神殿建設を督励する内容が記されています。そのため、ゼパニヤ書は南ユダ滅亡以前に書かれたもので、南ユダ滅亡後、捕囚生活の中での生き方を教える指針書の役割をしたと考えられます。国が滅び、捕虜として連れて行かれる苦しみを、ゼパニヤは「主の日」、つまり“主のさばきの日”と呼んでいます。そのような状況の中で生き残るための条件は何でしょうか。
残りの者とはだれか ゼパニヤ書は、「主の定めを行う、すべてのへりくだる者」に、主を尋ね求め、義と柔和を求めるように命じ、そうすれば主の怒りの日にかくまわれるかもしれないと強調しています(2:2~3)。「へりくだる」と訳されたヘブル語は、“謙遜な、柔和な、低い”という意味です。謙遜は主のさばきの前で私たちが持つべき品性です。正しくない人は自分の罪過に気づかず、羞恥心を失って抵抗しますが、謙遜な正しい人は、へりくだり、悔い改めて主の御心を求めます。主が守られる者は「へりくだる者」です。 また、この書は「へりくだった、寄るベのない民」を強調しています。主は、彼らを残して主の御心を受け継ぐ残りの者とされます(3:12~13)。「へりくだった」と訳されたヘブル語は、“しいたげられた、卑しい”という意味で、「寄るベのない」と訳されたヘブル語は、経済的に貧しい者を意味します。主は高ぶった悪者をさばき、へりくだった寄るベのない民を残しておかれます。このように、主が守られる者は“しいたげられた貧しい者”です。 ほかの旧約聖書と比較すると、ゼパニヤ書のメッセージはとても独特です。旧約のほとんどは、みことばに従うなら祝福を受け、偶像を拝むならのろいを受けると語っています(レビ26章、申28章)。これによると、現在の「へりくだった、寄るベのない」状態は罪の結果となるので、しいたげと貧しさに肯定的意味を付与することは簡単ではありません。それに対し、ゼパニヤ書は「へりくだった、寄るベのない民」は主のさばきの日に「残りの者」となり、主の御心と義を受け継ぐと宣言しています。イスラエルの民は、この書から、しいたげや貧しさがのろいではなく、敬虔と救いのための必要条件だと認識し始めます。物質的な繁栄は霊的祝福ではなく、堕落の始まりだということを“預言の霊性”はすでに見抜いていたのです。「しいたげと貧しさの霊性」は、苦しみの時間を耐え抜く霊的な養分になります。そのため、多くの求道者がしいたげと貧しさを宿命のように背負い、荒野に出たのです。
イエス様が働かれた対象はだれか イエスのおもな活動舞台は辺境地域のガリラヤで、そこでへりくだった、寄るベのない者たちがイエスに従い、弟子のほとんどがそのような者たちでした。権力と繁栄に酔った者たちはイエスの働きをそしり、「ガリラヤ出身の卑しい者」という理由でイエスの教えをあざけりました。イエスは、働きのおもな対象は“貧しい人々、捕らわれ人、盲人”(ルカ 4:18)であると明らかされ、これはイザヤの霊性とも結びつきます(イザ 61:1)。このように、イエスが働かれた対象は、おもに「へりくだった、寄るベのない」者でした。 今日、私たちは資本主義社会に生き、聖書が示すしいたげと貧しさが人を卑屈にし、疲弊させることをよく知っています。そのため、富をもたらすという偶像“マモン”と権力を追い求めようとします。しかし、ゼパニヤ書は私たちに「へりくだった、寄るベのない霊性」は、苦しみの時に「主が私たちを守ってくださる条件」になると教えています。2015年を終えるにあたり、ゼパニヤ書の教えと現実の間で、私たちはどのような決断をするべきでしょうか。
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